息を吐く貴方の冷たさに、すこしだけ涙が出たのです
左腕の時計が急かしている。只の久し振りの外出が、気付かぬ内に遠出の類になっていてこのまま徒歩では間に合わない。門限なんて全く、若い女の子じゃないんだからさぁ。乾いた刃物のなりをした冬の風が吹く中を、両足が応えて急く。清く正しく美しくさらに言えばとても痛い制裁の鉄拳を思い浮かべて、もう一度文字盤を見た。殴られるのは先輩だけの十八番で良いのに。
一つ角を曲がると、案外に解決策は見つかった。問題は自分がそれを何食わぬ顔で避けていたということに気付いた事だ。一人苦笑する気にもなれなず、小さく息を吐いただけで切符を買った。古ぼけて霞む狭いホームにはやはり冷たい風が吹き込んでいる。一駅分の値段の切符は、ポケットの中でいかにも小さい。
電車を待つ間、それまで動き回っていた世界を急に立ち止まって眺めてみると、今度は逆に自分を除いた風景の方が忙しなく動き出したようだった。低く唸って走って行った自動車や背の低い建物の影、まばらな靴音のどれもが自分の何一つも知ってはいない。たくさんの流れていくものの隙間で息をしているような感覚、それは誰かの視線が自分から外された時の妙な安心と、置いていかれた時の孤独によく似ていた。滑り込んできた長い電車に乗る大勢の中で、僕が一人。指先を凍えさせて何人もの人間とすれ違った。彼らと同じように自分が地面に立っていることが、酷く奇妙な事に思えると気付いた。
乗った車両は空席ばかりで、数えられる程の乗客の中で彼を見留めるのは容易いというよりも必然らしくそれ程驚かなかった。気を引いたのは彼がいつもの通り腕組みをして、常になく窓の外を見る仕種をしていた事だったが敢えて問おうとは思わない。隣に座っても暫くどちらも口を開かなかった。
「…楽しかった?今日は」
「ぼちぼちやんなぁ。お前は」
「まぁ、それなりだね」
のろのろと電車は進んで、合わせたように会話も実のない体を様していた。車体が傾いで更に速度を落とし、彼がくしゃくしゃの切符を取り出した時何か直感よりも確信に近い思い付きが落ちてきた。
「もしかしてきんちゃん、どこにも行ってない?」
顔を見やっても視線は色褪せたような外の景色に向けられたままだった。降車駅が近付いてくる。台詞は肯定の色。
「修行は間に合うてるしな、…俺は別に良太郎と話すだけでええねん」
「じゃ、ずっと電車に乗ってたの」
「砂漠と違ってなかなかおもろいで」
眠うなるけどな、と欠伸をしてから男は笑ってみせた。電車がぎこちなく止まるのに合わせて、彼の重さの少しだけが肩にかかるのを感じながら、嗚呼、何も変わっていないんだと思った。ことこの距離に於いては、見慣れた手付きで僕達が交わるのを阻む。季節が動いても、呼吸の仕方が変わっても、同じ孤独を抱えているにも関わらず口にしえない程僕達は遠かった。彼が席を立ち僕も続き、ドアが開いて吹き込んできた風が顔に当たった。時間には間に合うだろう。休日は終わろうとしていた。
「ねぇ、今度また出掛けられる日があったらさ」
「ん」
「ナオミちゃん達にお土産とか買った方が良いと思うんだけど」
「何買うたらええんやろな。俺は判らんわ」
「まぁ色々見てから決めようよ」
「…せやな」
靡く髪に隠れて彼の顔は見えなかったが、少し黙った後の言葉の表情は判ったりする。そういった生温い感情が先を歩く彼との間を結んでいる。手を伸べられた時のあの心象に、仄かに期待してしまうことをやはり止められてはいないのだ。それは酷く心地が好く苦い。相変わらず、何一つ変わってはいなかった。信号の赤が変わるのを待ちながら、顔を背けて密やかに自嘲の溜め息を吐いた時、彼が何かを呟いた。
「…ぁ」
「え?」
聞かせるつもりではなかったらしいが、聞き返すと彼は事も無げに繰り返した。関係のない雑踏の中で、いつもの通り金色で真っ直ぐこちらを覗いて。
「時間は仰山あるんやなぁ、て。俺にもお前にも」
そう言って横断歩道を渡り切ってしまった。黙ったまま、というよりも何も返せないまま三歩先を追って、その隣に追いついた時少しだけ肩が触れた。人の気も知らず意味もなく彼が笑う。思えば変わりたくないと願ったのは自分自身で、数え切れない逡巡の跡や彼まで届かない腕さえも自分で選んだものだと突き付けられたような気がした。今度は溜め息で済みそうにない。こんな台詞と温度だけで、嘘が嘘になってしまいそうだなんて。
(地面に向けて空を切り続けている、触れた指先は酷く冷えていた)
作品名:息を吐く貴方の冷たさに、すこしだけ涙が出たのです 作家名:よんじゅう