歌え、恋のうた
今日は練習ないから、と言われていたものの、習慣とは恐ろしいもので。
自然と足が向かった、主に軽音楽部が使用する、一般教室と一番離れた空き教室を覗き込んだ時、目に入ってきたのはアコースティックギターだけだった。いけ好かないギター担当も、ベースもドラムも当然見当たらない。フラリと吸い寄せられるように窓際に立て掛けてあったそれに触れた。床に座り込んで、飴色の輪郭をなぞる。
(……誰のギターだろう)
触ったら、怒られる、かな。
けど元に戻しておけばわかんないだろうし。今日は誰もいないし。持ち主は帰っただろうし。
……出したままにしておくほうが、悪いんだし。
大丈夫、と頭の中で言い訳を繰り返しながらそっと抱えてみる。脳裏に焼き付く最も身近なギタリストを真似て、右手でフレットに触れて弦を弾く。
弦が、空気を揺らして鼓膜を優しく震わせる。コードも音階も知らない。出来るのは開放弦の単音のみ。それでも、響く音の波はどれも新鮮で。
この音たちを自在に操るのは、一体どんな気分になるのだろう。指先から旋律が生まれていく感覚というのは、一体、どんな。
その願望を、いとも簡単にやっている男を思い浮かべる。
出会った時から今まで、ずっと気に入らない奴。けれど一緒にいるのは、認めたくないけど少なからず彼の作る音に魅せられているということで。
顔を見れば喧嘩して、反発しあって、だけど一緒に音を作ってみたり、認めてみたり。
なんていうか……不協和音にもほどがあるだろう。
奇妙な関係に思わずため息をつくと、
「シズちゃん?」
突然聞こえた声に、ビクリと弦に触れていた手を引っ込める。慌てて振り返ると、現在進行形で脳内を占領していた男がキョトンとした顔でドアの所に立っていた。
「何してんの?」
「な、何って……」
あたふたと状況をごまかす手段を必死で考えていると、男は――臨也は、ニヤリと口の端を吊り上げた。
「もしかして、それってギターの練習……のつもり?」
「……っ」
壊滅的だねぇ、と一拍遅れて臨也が呟いた。
反論したくても事実は事実なので何も言えない。ニヤニヤと笑う顔から視線を外し、唇を尖らせて呟く。
「……悪かったな、下手で」
「そうだね。まさか俺のギターの音じゃないかと思った」
ついでに発覚したギターの持ち主に、思わず膝の上にあるそれを投げ返してやろうかという考えが頭を過ぎるが、楽器に罪はないのでその衝動を押さえ込む。
代わりに、持て余した気持ちを消化するように木目を撫でると、傍らでクスリと笑う声が聞こえた。
いつの間に歩いて来た臨也が目の前に座っる。手に握られた水滴に濡れるペットボトルが、彼が何をして来たのかを示していた。
「弾いてみたい?」
「……無理だろ」
「だろうね、だってそれ弦逆だし」
ペットボトルをあおって、臨也はあっさりと言い放った。
「俺左利きだから弦張替えてるんだよね。シズちゃん右利きでしょ?それじゃやりにくいと思うけど」
「は、逆?何の話だ?」
「弦の話」
苦笑した臨也の手が伸びてギターヘッドに触れる。
「右利きは、ここを逆に持ってるでしょ?」
「そう……か?」
「そうかって、ほら、新羅だってそうじゃん」
新羅、って言われても。
俺が見てきたギタリストなんてお前だけだなんて言えるわけもなく。
不意に、臨也がフレットに置いていた指に触れた。人差し指と中指と薬指をずらされる。されるがままにそれを見守っていると、臨也が顔を上げて微笑んだ。
「弾いて」
「……?」
臨也の言葉に瞬いて、恐る恐る左手を動かすと、馴染み深い和音が聴覚をくすぐった。
「Cメジャー、これが基本ね」
で、これがGで、これがF、と。
次々に出来上がる和音に大きく息を吐き出した。すごいな、と言葉を乗せると、臨也は心底愉快そうに笑う。
「こんなことで喜んでもらえるとは光栄だな」
「いや……ホントにすげぇよ」
「そっか。じゃああげる、そのギター」
「…………は?」
唐突に飛躍した話題に間抜けた声が出た。
目を見開いてその顔を見詰めると、だから、と臨也は繰り返した。
「あげるって。弦も張替えるから安心して?」
「いや、このままがいい……っていやいやそうじゃなくて」
悪いから、と続けようとした言葉は臨也の言葉に阻まれる。
「もう使わないんだって。だったらシズちゃんに使ってもらったほうがコイツも幸せだし」
反駁は許されないくらい、にこやかに言われて。
言葉に詰まって逃げ道を探してしばらく教室内に視線をさ迷わせるが、そんなものがあるわけない。
――覚悟を決めるように、小さく息を吸い込んで、
「…………あ、ありがと、う」
おずおずと腕の中のそれを抱き直すと、満足げに臨也は笑った。