H署名の偽書
剣呑。というよりも物騒な声が電話口から響く。
「騙し?何のことかね?」
『てめえ!この間ハボック少尉を使って人に嫌がらせ以外の何ものでもない悪戯で呼びつけたの忘れやがったか?!』
叫び声は、些か甲高くなる。
もちろん忘れてなどいない。だからこそ、同じ手段で彼を呼び寄せようとしているのだ。
「別に私は事実を言っただけだが?"Tesaurus chymicus"(科学の宝)、そのH署名の偽書が手元にあると言っただけだ。」
『で?落書きのある、ハボック少尉に名前書かせた後年出版のそいつに、どんなオレにとっての価値があると錬金術師である大佐殿はお考えだったのですかね?』
「鋼の、価値を決めるのは君だ。私は情報を提供しただけ。これまでもこれからもそうだろう?」
H署名の偽書とは、一時期噂になったことのある本だ。
「科学の宝」という、錬金術師にとって教科書のようなテキストがある。
これが出版された当時、大センセーションだったとかで今に至るまで何度か出版されなおしたし、広く世間に流布した。
ところがだ。Hという当時の高名な錬金術師が、面白がって検証をした本を出したという。
ベストセラーが出たなら、それに被せた類似本や海賊本が出るのは古今東西に不変だ。
流石に腕のいい錬金術師だったのだろう。発売初日に、待っていたと随分売れたという。
が、一週間後。その本は発禁になった。Hは行方不明になり、本は回収騒ぎとなった。
大騒動だ。
そこで、本の中身というのが俄然いくつも噂になった。
噂の中で一番有名なのが、賢者の石の精製実験とその結果が載っていたというものだ。
そうして口を憚るように、人体錬成の実験結果もあったという噂も。
当に、鋼の錬金術師垂涎の本なのだ。
この当時の記録が残っている。最初の一週間、卸した本屋は三軒だった。
その入荷数が50冊、20冊、28冊。
売れた数が、11冊、4冊、9冊だったという。
そのうち回収されたのは・・・流石に記録に残っていない。
というより、意図的に記録されなかったのだろう。
都合の悪い情報は闇から闇へ。古今東西、国家のやり口も不変だ。
ところが、だ。この偽書のもうひとつの噂が、本屋にある。
28冊、という入荷をした本屋は、回収騒ぎの際に嘘をついたのではないかというのだ。
まず、その半端な入荷数。それから、9冊という販売数。
他の二軒は約5分の1売れているのに、この店では約3分の1である。
統計で考えるとおかしくは無いか、と噂されたのだ。
そして、発禁後もこっそりと隠した分を流通させたのではないか、と。
そのため、焚書を免れたものが数多くあるのではと期待させる本でもあるのだ。
『へえ、あんたその調子で”錬金術”を頼んだらシュトルンツじゃなくてリプマンだったなんてことしてみろよ、中尉より先にオレがキレるからな?』
痛いところをついてきた。リプマンは確か、賢者の石を迷信として同名の書で片付けた筈だ。
『とりあえず、何が何でもそっちには向かってやる。オレを懐柔するくらいの文献を用意しとけよ、無能大佐。』
ちん、と電話が切られた。どうやら私が彼を頼りにしていると見抜かれたらしい。
実際、前回がそうだった。効果的に動ける手駒が彼だけで、呼び寄せたのだ。
そうでもなくばこんな悪戯が許されるわけが無い。特に背後の副官に。
「さて、ハボックもハイマンスも使ってしまったとなると、次のHはどうしようか?」
首尾よく了解がとれたので、次の手段を考える振りで副官におどける。
「大佐がご結婚でもなさって、改名なさっては如何でしょう。」
「・・・一考させてもらおう。」
暗にそんな企みに自分は関わらないと宣言されてしまう。
だが、ホークアイという名の彼女が言うところに、あらぬ期待を私は憶えた。