海へ還る子守唄
情けない話、怖いのだ。
意識を失った体が、動かない睫毛が、微かな呼吸が、まるで止まっているみたいで。
雨の音を聞きながら、それを見るのは嫌いだった。
いつまでを世界を叩く止まない雨音、部屋に満ちた反響音だけを残して全てが消えてしまったみたいで。
雨が、降っていた。
爪を立てる雨粒を甘受して窓硝子は音を立てる。僅かに響くそれに、浅いところで泳いでいた意識は簡単に引きあげられた。覚醒した意識に飛び込んで来たその音、青い闇の色、目の前で眠る白い身体。
反射のように一瞬息を呑む。そして、苦笑。
万物を潤す雨、恵みあれ、慈しみあれ。
その音は眠りを妨げるものでしかないのに。
「恭弥」
意志の強さを窺わせる黒い瞳が閉じられてしまえば、そこに残るのはあどけない寝顔だけ。
白いシーツの波に溺れながら、閉ざされた瞳の向こうは今何を見ているのだろうか。
黄色人種のくせに陶器のような肌に残された赤い花。筋肉のない未発達な身体に不釣合いな散花に、満足と後ろめたさを覚える。
――人形みたいだ。
ぴくりとも動かない頬に触れ、その冷たさに驚いた。
溶けるようなあの体温はいったいどこに消えてしまったのか。
「……恭弥?」
ありえない。
頭ではわかっていても息苦しさが胸につかえる。
不安、いや、恐怖。
首筋に触れてみて、感じたい鼓動が薄い肌の下に見つけられなくて心臓が凍りついた。
慌てて、仰向けに眠る彼の胸に、心臓の真上に耳を押し当てる。確かに動く鼓動を聞いて、ほっと安堵の息を吐いた。
馬鹿げている。
そんなことは、昔からわかっている。
「なにしているの」
頭の上から声が降ってきた。
どうせ降ってくるのなら、空から降ってくるのも彼の声だったらいいのに。
そしたら拡大する閉塞に悩まされる日々も今日で終止符を打つというのに。
「ねえ」
気だるげに囁かれた声に顔を上げると黒曜石の瞳と目が合った。
「重いんだけど」
どいてくれない?
その言葉に自発的な行動を起こす前に、遠慮のない力で胸に乗せていた頭は押しのけられてしまった。
今何時、枕もとの時計に手を伸ばした恭弥の指をやんわりと握り込む。
漆黒の瞳が無言で問いかける。
何?
曖昧に笑って見せると彼は呆れたと言う様に、ため息を、一つ。
「眠れないの?」
「怖いんだ」
「……ワオ、貴方今年でいくつ?」
言葉とは裏腹に頭を抱き寄せてくれる細い腕。
頭を撫でる手のひら。
ゆったりと伝わる体温は、彼の優しさと命の証。
「母さんが、死んだとき、」
温もりに甘えてそう口火を切ると頭を撫でる手が一瞬強張る。
わかっていながらも話を切る気はなかった。
「あの時も雨が降ってた」
「……そう」
「だから泣かなかった。つーかロマが衆目があるから絶対に泣くなって」
「そう」
「おかしくねえ?マフィアは人前で泣くなって。自分の母親のためなのに」
「そう」
「ああ、9代目が父さんって呼ばせてくれなくなったのはあの日の、翌日だな」
「そう」
「葬式の次の日さ、人が変わったみてえで」
「そう」
「母さんと一緒に父さんも死んだみてえで」
「そう」
「人が死ぬって怖えのな。寝てるみたいなのに、あんなに綺麗に寝てるだけなのに動かないんだぜ」
「……。そう」
「人一人動かなくなるだけで、世界が反転するんだ」
やさしい、雨。
戒めのように、慈悲のように、人の死も、優しさも愛情も、全て洗い落として雫たちは唄う。
大地に還れ。
雨雲の去ったインディゴブルーの下で、足下に残った水溜まりに涙を落とすことさえ叶わない。
この身から流れ落ちたものへの希求すら、懐古すら、そんな当然の贖罪の儀すら赦されることはないというのに。
どこまでもやさしい雨。内包するは、無邪気なまでの残酷。
ああ、どうせなら海に帰りたいのに。
「怖いんだ、恭弥」
雨が降る夜は恐ろしい。
次の朝目覚めたら、意識の外で何かが音も立てず死んでいるようで。
無意識のうちでの喪失が、この世で何よりも。
怖いんだ。
繰り返すと抱きしめられた腕に一層力がこめられた。
そう、と。
「ねえ、僕が貴方より先に死ぬとでも思っているの?」
顔を上げると、彼は夜の凪いだ海によく似た瞳で綺麗に微笑んだ。
「わかってるなら、もうおやすみ」
(Buona notte. Sogni d'oro)
おやすみ、よい夢を