夏休み。
鈍色の雲に覆われた空から、絶え間なく雨が降り注ぐ。ここは日本の持つ家の一つ、山奥にある和風建築の屋敷だ。周りには人気も無く静かな場所であるが、今は、ざぁ……と全てを掻き消すような雨音しか聞こえない。
「雨、止まないね」
ここに来てから二日間、この調子だった。イタリアはずっと、膝を抱えて廊下に座り、ぼんやりと外を眺めていた。木目を残す板張りの床は磨きこまれていて、直に座っていても何処かひんやりと心地良い。庭と廊下を隔てる硝子戸はイタリアの目の前だけ開けられている。風は無いので、雨が吹きこんで来ないのだ。
見上げると、可愛らしいてるてる坊主が吊るされている。ついさっき日本に教わり、イタリアが作った物だった。
「すみませんね、せっかく来て頂いたのに連日雨で……」
本当は色々と案内したい場所もあったのですが、と日本は困ったように笑んだ。イタリアの背後、障子の開け放たれた和室に入り、膝を折って畳の上に座ると同じように外を見つめた。
和室のテーブルで本を読んでいたドイツが、視線を上げた。
「いや、天気ばかりはどうにもならないからな。俺はこうしてゆっくり過ごすのも楽しいが」
ドイツはずっと、本を読んでいた。持ちこんでいた本を読み終え、今は日本の家にあった本を借りて読んでいる。
「あーあ、温泉、入りたかったなー」
イタリアが手足を投げ出し、廊下に寝そべった。
「おや、中のお風呂にも温泉を引いてあるんですよ」
日本が微笑んだ。外には露天風呂があるのだが、雨や雪の時に利用する為に室内にも風呂は設えてある。景観や広さは外に劣るが、外と湯は同じなので効能は変わらない。
「私はこれから夕飯の支度をしますし、入って来てはどうですか?」
日本に促され、イタリアは何度か目を瞬かせていたが、勢い良く起き上がるとドイツの方へ駆け寄った。
「うん、そうするよ。ドイツー、ドイツ、一緒に行こう」
「はぁ? 二人で入るには狭いだろう。一人で入れ」
「えー冷たいよドイツー」
「大体、お前と一緒だと落ち着かん。いいからほら、さっさと行け」
眉根を寄せるドイツに、イタリアは渋々と言った様子で離れた。
「浴衣とタオルは後で用意しておきますから」
日本はそう言ってイタリアを見送ると、溜息を吐くドイツの方に視線を向けた。
「よろしかったんですか?」
「あー、せっかくの温泉で疲れたくはないからな……」
「お二人は本当に仲が良いですよね」
微笑まれ、ドイツは複雑な表情で視線を反らした。
「からかわないでくれ」
「ふふ、すみません。では私は夕飯の支度をしますね」
「俺も手伝おう」
立ち上がろうとしたドイツを日本はそっと手で制す。
「大した準備もありませんから、ゆっくりしていて下さい。イタリア君が戻って来たら、ドイツさんもお風呂をどうぞ」
ドイツは戸惑いの視線を向けていたが、家主に言われてしまってはそれに従うべきだと思ったのだろう。大人しく引き下がった。
夕食に振舞われた日本の手料理は、決して豪華という物でもなく、シンプルな家庭料理だった。しかし川魚や山の幸を中心に旬の素材を活かした料理は、どれも美味しかった。
長く滞在するのだから、気を使って豪勢な食事を出されるより、家庭の味に触れられる方が嬉しい。魚は身を食べ易いように予め処理をしてあったりと、質素に思える中でも日本らしい細やかな気配りも見て取れた。
食事を楽しんでいる間に、雨も止んでいたようだった。
「わぁ……」
縁側から外に出たイタリアが感嘆の声をあげた。空気はしっとりと水分を含んでいるが、澄んでいる。月明かりは薄いけれど、空には満点の星。庭の緑に残る露が、照らされて輝いている。
風もほとんどなく、涼しいくらいだった。浴衣にサンダルという格好で(日本だけは着物だったが)、三人は庭へ出た。
歩く度に、じゃり、と敷き詰められた小石が音を立てる。ふと、目の前を通り過ぎた何かに、イタリアは小さく声をあげた。
「あっ」
ちらちらと舞う、小さな光。頼りなく揺らめくその光は徐々に数を増やしていく。
「蛍、ですね」
「綺麗……」
ふわりと漂ってきた一つの光にドイツはそっと手を伸ばし、両手でそれを包み込んだ。
手の中に閉じ込めた蛍を、指の隙間から覗き込む。
「案外、小さいのだな」
興味津々と言った調子で近付いて来たイタリアも、同じようにドイツの手を覗き込んだ。指先よりも小さな黒い虫が、手の中でちかちかと明滅している。
「虫籠があれば、捕まえておけたのですが……」
日本の言葉に、しかしドイツは首を振った。
「いや、放してやろう」
手を開くと、蛍はほんの少し手の平を這い、また飛び立った。それを視線で追い掛ける。
「なんか、星が降って来たみたいだね」
手を伸ばせば届く距離で、小さな光が瞬いている。幻想的な光景に、暫し目を奪われていた。
「こんな光景が見られるのなら、ずっと家に居るというのも悪くはなかったな」
自国でも蛍は生息しているが、日本の庭で見ると、また違った趣がある。
「イタリア君のてるてる坊主が効いたのでしょうか。明日は、良い天気になりそうです」
「ヴェ、だったら、明日は何処かへ出掛けようよ!」
目を輝かせたイタリアに、日本は口元に手を当てて考え始めた。
「そうですね、ここからだと……」
日本には何度も訪れた事があるが、この家に来たのは初めてだった。聞いた事のない場所はどれも惹かれる物がある。
「観光するような場所は少ないですが。虫網と虫籠があれば、昆虫採集なんかも出来ましたね」
「子供ではないのだから」
「おや、爺から見ればお二人はまだまだ子供ですよ」
苦笑するドイツに、日本は笑みを深くした。
「それに、たまには童心に返るのも楽しいと思いますし」
忙しい日常を送っているからこそ、夏休みくらいは小さな子供の様に楽しんで貰いたい、と日本は告げた。異国から来た二人には、きっと、新しい発見と感動を見つけて貰える筈だから。
涼みながら、三人であれこれと計画を立てていく。夏休みはまだ始まったばかりなのだ。明日も、明後日も、こうやって楽しく過ごしていけると思う。平和な世界の元、束の間の休息。長い歴史を辿って来た自分達には、それは決して当たり前の事ではなくて。だからこそ今こうやって二人の楽しそうな笑顔を見ていられる事は、とてもかけがえのない物で。
「……なんだか本当に、孫を見守る爺の心境です」
そう、穏やかな幸せなのだ。届かない程の声で、日本はそっと呟いた。