Do you love me?
瞬間、
一瞬、時が止まった。
日暮れを告げるヒグラシの声もご苦労なことに活動を続けるいくつかの部活の騒ぎ声も鳴りを潜めた。
いつも自分が座っているはずのソファの背もたれから覗く金髪。太陽をそのまま反射したような金色が夕日に透けて眩しい。
姿を見るのはいつぶりだろう。
最後は、そう、まだ夜は肌寒かったあの日。ホテルに2人でいたら突然彼の携帯に電話がかかってきて。彼はイタリア語で何かを言う合間に、一度だけこちらに向かってごめんと唇を動かして出て行ってしまったんだっけ。
あれから電話は何度もかかってきたけれど一度として応えていない。
ごめん恭弥、怒ってるよな。
留守電に残された一言が耳の奥に残って消えない。
抱えていた黒い名簿帖を取り落としそうになってふと我に返る。
姿を見ただけで満たされて、渦巻いていた黒い感情さえ浄化されて全てを許してしまいそうになる自分に思わず舌打ちをする。
なんて、単純。
「関係者以外は立ち入り禁止だよって、何度言えばわかるのかな」
乱暴な足音を立てて彼に近づく。
反応がないことに苛立ちながら椅子に座る彼の顔を覗き込んで、密かに息を呑む。いつもなら呆れるほどに見つめてくる鳶色の瞳は、今は固く閉ざされていた。
「寝てるの?」
思わず言葉が零れ落ちた。
「馬鹿じゃないの」
見回りに出かけて、今に至るまでに30分も経っていない。その間にこの部屋にやって来て、部屋の主の不在を確認して、このソファに座ったのだとすれば、
「……そんなに疲れてるんだったら来なくていい」
疲労の色が滲む顔に呟く。
隠しきれていない目の下の隈がこれまでの激務と、そこまで疲れているのに仕事が片付いて即ここまで飛んできたという二つの事実を訴えてくるから、本当に、性質が悪い。
そっと手を伸べて自分とは違う白さを持つ頬に触れてみる。
「マフィアのボスがこんなに無防備に寝てていいの?安心して眠れる所なんてないって言ってたじゃない。それとも、」
僕がいるから?
言葉の最後は吐息に変える。
「起きなよ、ディーノ」
言いたい文句がたくさんある、と、人を起こせないような音量で正反対のことを言ってみる。彼の長いまつげがピクリとも動かないことに、安堵と少しの落胆が胸に広がった。
頬に触れていた指を上へと滑らせて金糸をかき上げるように頭を撫でると、ソファの上にギリギリで保たれていた身体は呆気なくバランスを崩れて倒れそうになる。慌ててそれを支えて、近づいた顔の距離にドキリとする。
「いいかげん、起きたら」
ぼやきながらも、このまま彼が起きなければいいとも思う。
意地を張って電話を一度も取らなかった自分を怒ってないだろうか、呆れてないだろうか。
そもそもまた会えるなんて確証もなかったのに。いつまでも一緒にいられる保障なんてどこにもないのに。
会いに来てくれたなんていうのが、ただの思い込みだったら、自惚れだったら。もしかしたら、これが最後の可能性だって十分にあるのに。あの時、何の説明もなくホテルから出て行ったのは、
ねえ、ディーノ。
「Mi ami?」
彼の額に自分のそれを合わせて聞いてみる。
証拠を見せてだとか、執着してみせてだとか、そんな女々しいことは望まない。
ただ、せめて。
掠れるほどの声で呟いた言葉に、うっすらと彼の瞼が持ち上がった。
脳の回路がうまく回らないまま、覗いた鳶色とそのまま裕に五秒間は見詰め合う。
ようやく繋がった思考で現状を理解すると同時に弾かれるように額を離そうとするが、一瞬早く後頭部を捕まえられてしまった。
「……きょう、や」
久々に聞くテノールに涙腺が緩みそうになる。唇を引き結んでじっと瞳を見つめ返すと、彼は困ったように微笑んだ。
「ごめん。久しぶり、恭弥」
「貴方は、」
そう言うことだけが精一杯で視線だけで俯く。
言いたいことなんて山ほどあったけれど、今噛み締めた唇を解こうものなら確実に嗚咽しか出てこないから。
ごめん、繰り返される言葉に叫びたくなる衝動を瞼を閉じてやり過ごす。
甘えて縋ることは、許されないと、決めたのは自分。
どろどろに溶かされた蜜は自分を絡めとった後に、簡単に砕けてなくなってしまうだろうから。
いつか断ち切らなくてはならない温もりなら、今、この手で。
恭弥、呼ぶ声に促されてゆっくりと瞼を持ち上げた。
鳶色の瞳が困惑したように揺れる。
「泣かないで、恭弥」
「……泣いてない。意味、わかんないんだけど」
半眼で睨みつけると彼の瞳は優しく細められた。
「大丈夫。傍にいる、いつだって」
愛してる。
囁かれた声が耳に届いた瞬間、胸の中で何よりも柔い決心がガラガラと音を立てて崩れ落ちた。
疑心に反比例して満たされていく短絡な心を、それでも拒むことなんてできない。
嘘つき。
呟いた言葉は重ねられた唇に消えた。
作品名:Do you love me? 作家名:茉雪せり