右の頬を打たれたら両頬を殴り返す君に、キスをひとつあげる
「おめでとう」
それは呪詛の言葉だった。
俺を拘束するのにロープも手錠も必要ない。
彼はたったその一言で俺を縛りあげるなり、真っ黒な夜の海へ突き放したのだ。
パーティの招待状を出した。毎年送り続けるそれに、彼は体調が悪いだろうに律儀にも来てくれた。
嬉しかった。俺の独立記念日が近づくと体調不良に陥る彼が、今年はそれを押してでも来てくれたのだから。
だが、当日うちへやってきた彼の顔色は悪くなかった。それどころか、欧州の面々と笑いながらどつきあっている。さすがに笑顔でみんな仲良く、とはいかないのが彼らしいが、それすら俺にとっては天変地異に等しい光景だった。
「イギリス! 君、体調が悪いんじゃ・・・」
「ああ、今年は大丈夫だ。おかげでお前の誕生日にも来られるようになったんだ」
「そ、そうかい・・・それはよかった」
楽しんでいってくれよ、なんて言葉が上滑りする。
俺はひとつの可能性に行きあたっていた。彼自身はまだ気づいていないようだが、欧州の面々とも打ち解けたことで、経済が安定しただけでなく彼自身の精神状態もいい方向に向かったのではないか。
それこそ、養い子の独立記念日を迎えても心乱れない程度には。落ち着いて子供の成長を喜んでやれる程度には、イギリスは一人でもないし寂しくもないのだ。過去に愛した子供の幻影に縋らずとも、張り合いながらも協力しあう仲間ができたということなのだろう。
たった一人、かつて子供だった男に執着する必要など、もうどこにもないのだ!
彼にとって俺は彼を内側から食い破って一人の人格として歩き出した裏切り者だったはずだったのに。
その裏切りを、君はおめでとうと笑うんだね。
「Happy Independence Day!」
裏切りの日おめでとう!
俺はトイレに駆け込んで、少し吐いた。
こみあげてくる嘔吐感をこらえきれずに、便器に向かって数度えづく。せっかくのごちそうがトイレに流れてしまった。先ほどまで俺の口内を占めていた美味しい幸福感は、胃液の酸味で上書きされてしまった。
ローストビーフ、山盛りのポテト、オニオンフライにハンバーガー。俺の大好きなものをたくさん用意してもらったのに。
悔しくてなんだか泣けてきた。
君は、俺なんてもう要らないの?
どうでもいいからそんなふうに笑うの?
あんなに嫌がっていた俺の誕生日を素面で祝えるほどに。
「アメリカさん・・・?」
足音を立てずに、するりと日本がトイレに入ってきた。
といっても彼の姿を視認したわけではない。俺は依然個室でしゃがみこんで便器に向かい合っていたし、雰囲気から察するに彼はまだ手洗いにいる。
だが、彼は個室までは足を踏み入れることなく、入っても構わないのかそれとも関わらず出ていったほうがいいのか、その判断に迷っているようだった。おそらく俺の様子に気づいてあとを追って来たはいいものの、入っていいものやら決めかねているのだろう。
「・・・大丈夫だよ」
口元を拭いながら出ていくと、彼は目を合わせずにハンカチだけを差し出した。吐瀉物を拭うにはあまりにももったいない、きちんとプレスされた清潔そうなハンカチだった。
自分のを使うからいいよと断ろうとして、ポケットに入っていないことに気づいた。
「構いませんよ」
彼は相変わらず表情の読み取れない顔で、たぶん微笑んだのだろう。変わらず慎ましやかにハンカチを持った右手を差し出していたから、手洗いで顔を洗って口を漱いでから、ありがたく拝借することにした。
日本はやさしい。
何も聞かずにハンカチを差し出して、武士の情けで何も見なかったことにしてくれる。イギリスにはあと千年あったってできそうにない芸当だ。ここではち合わせたのが彼だったとしたら、きっと大慌てでパニックになって、彼のほうが泣いてしまうのではないだろうか。頼りにならない。情けない育て親だが、実によく想像できる。
そう、俺の中でイギリスはずっとそうだった。昔のように言葉にはしない。それでも、何も言わなくても、俺を愛しているのだと思っていた。
おめでとうと言ってほしい。俺のことを認めてほしい。
だがその反面、ずっと言わないでいてほしいとも思っていたのだ。つむじを曲げて、この日ばかりは背中を向けてほしかった。
独立を祝福されないということは、つまりイギリスが俺にまだ執着していることの裏返しだった。俺にとって長らく七月四日とは、「アメリカの馬鹿野郎」と呪詛の言葉を吐かれることで彼の愛を感じることができる日だった。なのに、今は彼に祝福の言葉を贈られて、俺は呪いを受けてしまったのだ。
日本のハンカチは散々握りしめられて、ぐしゃぐしゃになってしまった。人払いのつもりなのだろう。トイレの入り口付近で俺に背を向けて立っている日本のちいさい背中を見ながら、新しいのを返さなきゃなんてぼんやりと考えた。
広場に戻ると、俺以上に喜色を満面に浮かべたイギリスが紙袋を手にやってきた。
随分と機嫌がいいところを見ると、いくらか飲んでいるのだろう。
「アメリカ、今年の誕生日プレゼントだけどな」
「ねえ、イギリス。体調、本当に大丈夫なの? ・・・今は平気なのかい?」
ああ、零れ落ちそう。
大きな翡翠が大きく見開かれる様を見て、そんなことを思った。彼の大きな瞳は、本当に美しいから。俺は彼のそれが一等好きなのだ。万が一落としてしまっても、俺がちゃんと拾って嵌めてあげる。
「イギリス?」
だが落ちたのは彼の眼球ではなく、彼が手に提げていた紙袋だった。
「驚いた。お前がそんなこと言うなんて」
「何だいそれ」
「だってお前いっつも嫌味しか言わねえじゃねえか! 『人の誕生日に決まって体調崩すなんて、恩着せがましくて厭味ったらしいったらないよね』とか」
まったく一言一句よく覚えてるもんだね。
ぶうたれるイギリスのまるい頬を指先で突いてやろうとして、それじゃあいつもと同じじゃないかともう一人の俺が叱咤する。
「・・・否定はしないよ」
イギリス、確かに俺は君がこの時期体調を壊すことが嬉しかった。
このときばかりは君の愛情を独り占めできるから。
「だけどね、イギリス。俺だっていつまでも去年と同じ俺じゃない」
俺はもう無条件でイギリスに愛される子供ではないけれど。今はもう、彼の庇護のもとにはないけれど。
ずっと傍にいてあげる。
だって君を、愛しているから。
無条件の愛情は期待しない。今の俺があげられるものと言えば等価交換なそれだけだから、きちんと伝えたいんだ。
だから俺は一歩を踏み出そう。
「パーティが終わったら君に会いに行くよ。とてもとても大切な話をしよう」
作品名:右の頬を打たれたら両頬を殴り返す君に、キスをひとつあげる 作家名:あさめしのり