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あさめしのり
あさめしのり
novelistID. 4367
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片目には両目を、一本の歯には全部の歯を

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片目には両目を、一本の歯には全部の歯を



 列車が揺れる。
 窓の外の茜色した景色を眺めながら、アメリカは海を隔てた土地に住む育て親の国を目指した。
 彼はそろそろ気づくだろうか。
 バスルームにあったルージュを見つけたのは偶然だった。フランスの部屋で洗面台を使った時に、腕がぶつかってころんと何かが転がり落ちたのに気がついた。眼鏡をはずし薄らぼんやりした裸眼のまま、手を伸ばすとそれはアメリカの掌に収まった。
つるりとした表面のそれは見間違うはずもないルージュだった。蓋をとってひねると薄紅色の芯が顔を出す。使われていくらか擦り減った口紅は、なんだか甘い匂いがした。女特有の匂いだった。
 アメリカはルージュが伝える事実を事実として受け止めていたが、だからといって激昂することもなければ悲嘆にくれることもなかった。ただ、少しのあいだ考えた。
 その場で問い詰めても、彼にはきっと堪えないに違いない。あの自称色男は、アメリカと言う存在がありながら、いつもどこかで恋に落ちて帰ってくる。だったらいっそどこへも行かせず閉じ込めておけばいいのだが、それはそれでアメリカのほうが気詰まりだし好きにさせている。その結果、フランスはどこかへ出かけるたび浮気な恋を見つけてきてしまうのだった。
 どうせすぐ振られるくせに。
 きっと今回も、どちらかの頬に手形を贈られるはめになるのだろう。
 ひとつため息を落として、アメリカはルージュを洗面台の元あったと思われる場所に置いた。
 そうしてアメリカは、戯れに口紅をそのままにして彼の家を辞して来たのだった。
遅くとも今晩中には気がつくはずだ。
気がついて彼は一体どうするだろう。先ほどまでいつの間にか黙って帰ったアメリカを非難していたのに、今度は自分が非難されるべき立場に立たされたと知って狼狽するだろうか。まずはアメリカの上司に連絡して帰っていないか問い合わせるだろう。そのあと、帰っていないことが分かれば、どこへ行ったと行く先を手当たり次第知り合いに電話するだろう。
慌てふためいて、赦しを乞うために文字通り東奔西走する彼を想像すると少し愉快な気分になった。
「どうしたんだ、今日は。フランスの野郎んちに泊まる予定じゃなかったのか」
 いや、別にお前一人来たくらい困らないけどな。と聞いてもいないのにイギリスは照れた。当然だ。イギリスは突然アメリカが来て、嫌な顔をするような人ではない。手を離れた我が子同然のアメリカの来訪を厭う理由などないだろう。
「ちょっと彼にいやがらせ、かな」
「いやがらせ?」
「そう。彼ってばまた新しい不毛な恋に身を焦がしてるらしいからね」
 わざとらしく泣き真似をしてみせるまでもなく、イギリスがいきり立った。
「まあ落ち着きなよ、イギリス」
「お前が落ち着きすぎなんだ!! 浮気なんか許してんのか!? というか俺はあいつの存在がまず許せん」
「別に容認してるわけじゃないよ・・・そんなに彼が嫌いかい?」
「嫌いにならない理由があると思うか」
 想像以上だ。
 昔から仲がよろしくないのは知っているけれど、ここ最近はわりあいうまくやっているものだと思っていた。それはあくまで戦争しないというレベルのものだったのかもしれない。彼ら自身の間に横たわる感情は、国民の生よりはるかに歴史が深く長い分、一度マイナスな感情が発露してしまうとどうしようもなく止められなくなるのだろうか。
 アメリカはイギリスに育てられたが、彼の宿敵であるところのフランスに恋をした。
 フランスという男は自分を甘やかしてくれるけれど、決してその心すべてを寄こしはしない。一見やさしげに見えるけれど、本当はひどく冷徹でドライな部分も持ち合わせている。
 彼の一体どこを好きになったのか、アメリカ自身にもわからない。
 彼の掴みどころのない性格や、懲りもせずに浮気な恋を追いかけるところだろうか。確かに彼のそういったところが面白かったのは事実だ。浮気性の彼を、自分に引きとめておくことができるか、そういったある種のゲーム感覚があったことも否めない事実ではある。
 だが、本当に今それだけかと言われると、アメリカは首肯できない。
「いいや、今すぐだ! あいつ自慢の顔がつぶれるまで殴ってやらなきゃ気が済まねえ!」
「顔はやめてくれよ。彼の最大の長所を奪う気かい」
「お前もあいつの面の皮一枚に惚れたとか抜かすんじゃねえだろうな」
「もう、まぜっかえさないでくれよ」
 イギリスときたら昔はフランスにあこがれていたこともあったくせに、そのことを忘れているのか、それとも本当に失念しているのか判然としないが、「ロン毛で毛深いとかありえねえ。胸毛とか気持ち悪ぃんだよ」と公言して憚らない。
フランスはとてもいい男だと思うのに、育て親の目から見ると「汚物野郎」だの「薄汚い蛆虫」だのになるらしかった。
 イギリスが淹れてくれた紅茶で喉をうるおす。
 いい茶葉を使ったということが一口でわかる。イギリスはどんなに気に入らない目の中の釘と付き合っていても、アメリカを甘やかすことをやめないし、彼の中で自分の立ち位置が変わらないことにひどく安心した。
 そうして初めて、自分がフランスに少しばかり腹を立てていること、それから延々きりのない彼の浮気癖に疲れ始めていたことを知った。相手との腹の探り合いも恋愛の醍醐味の一つだが、アメリカは移ろいやすい恋心よりも移ろわざる愛情をこそ欲していた。
「それに、君と話したいこともあるんだぞ。彼のことより俺の話も聞いてよ」
 にっこり笑うと、イギリスはすとんとソファに腰を落とした。
 今すぐに簀巻きにされてドーヴァー海峡に沈められるという一大事は逃れたものの、いかなフランスも明日はきっと無事では済まないだろう。何せイギリスからすれば、蝶よ花よと育て、今も溺愛してやまないアメリカと付き合っているというだけで万死に値するというのに、よその女に気を移すなど百万回殺しても殺したりないほどの殺意を抱いているに違いない。
 だからこそ、アメリカは今までイギリスにフランスの困った性癖を話さなかったのだ。
 だが、今回は少しばかり反省してもらおう。
 アメリカがひっついている間は、イギリスは目の前にアメリカに気をとられて怒りの矛先をフランスに向けることはないだろうが、それが一晩おいて朝になったらどうなるかわからない。気の短いヤンキー気質の彼のことだ。朝一番に、フランスに殺意のこもった電話をかけることだろう。電波に呪いがこめられるとしたら、それこそ呪殺しかねない勢いで。
 多情なところもひっくるめて愛しているけれど、度が過ぎればアメリカとて怒りもする。
 久しぶりの育て親の体温はあたたかくて、彼の肩を枕に、彼の声を子守唄にして、アメリカは心地よい眠気にうっとりと目を閉じた。