春の日の出来事
もちろん我が親友であるホームズにもどうかと誘ってみたが、世間には幸福なことに(ホームズにとっては不幸なことに)、もう何ヶ月も依頼が途絶えていたせいで、彼は例によって平凡を極めたる日々にぐずぐずになっていたのである。
「散歩だって?」
もはや寝椅子と化した藤でできた長椅子にだらしなく横たわったまま、ホームズは力なく言った。
「その先で、この知的空腹を満たしてくれる事件に出会うというのなら、もちろん僕は喜んで出かけるよ」
皮肉な言い回しはいつものことだ。
むしろ、もっと辛辣な言葉が返ってくるのではないかと思っていたので、いささか拍子抜けした感もある。
私は肩を竦めておもむろにステッキに手を伸ばした。
「それじゃホームズ。15時には戻るよ」
もう声をだすことさえ億劫なのか、彼は返事のかわりに右手をあげてひらひらと振ってみせたのだった。
散歩は素晴らしい気分転換となった。
公園には私と同じように春の恩恵を受けようと考えた人々が集まり、たいへんな賑わいだった。
ホームズの鬱々とした雰囲気に多少なりとも影響されていた私は、公園のベンチで暖かな午後の日差しと、清清しい新鮮な空気を存分に堪能したのである。
外出前に約束したように、私はベイカー街の下宿先に15時過ぎには帰った。
階段を上がりかけた時、ハドソン夫人が丁度お茶の用意をしてキッチンから出てきた。
「お帰りなさい、ワトソン先生」
「ただいま、ハドソンさん。ああ、持ちましょう」
「いいえ、先生にそんな」
トレーを挟んで私とハドソン夫人は、持つ持たないと一騒ぎとなった。
あいにく、私もハドソン夫人もいくぶん強情な性格をしているものだから、どちらも引かない。
「ですから、私が」
「いいから、気にしないでください。ああそういえば、外はいい天気でしたよ」
「ええ、ええ、今日はほんとに良いお天気でしたこと」
私はさりげなく話題をそらしながら、ハドソン夫人の手からトレーを奪い取ることに成功した。
彼女は納得がゆかぬような顔をしていたが、私がしっかりとトレーを握っているのを見とめると、諦めたように「お茶が冷めてしまいますわね。お言葉に甘えましょうか」と微笑んだ。
階段を上がりながら、今日の天気や世間の情勢などについて、私達はたわいもない会話を楽しんだ。
そして紅茶に話題がおよんだとき。
このお茶は、ホームズがもうすぐ私が帰ってくるからと用意させたのだと教えてくれた。
「まったくホームズ先生ときたら。お部屋に篭もってばかりなんですから」
眉をしかめ、呆れ果てたようにため息をついてはいるものの、口元には微かに笑みが浮かんでいるのを私は見逃さなかった。
「たまには日の光に当たらないと人間だってしなびてしまいますよ。先生もそう思いますでしょう?」
「おっしゃるとおりです」
「ホームズ先生の青白い顔を見る度に、病気じゃないかとそれはもう心配で心配で」
丈夫なのは存じているんですけれどね、とハドソン夫人は怒ったような困ったような顔をしていた。
彼女にとってホームズは尊敬に値する紳士ではあるが、それにもまして手のかかる大きな子供なのだろう。
ひょっとすると、私も含まれているのかもしれないが。
普段はあまり下宿人の生活に口を挟むことはしない人だが、ことホームズの健康面に関しては私に負けず劣らず、そう、まるで母親のように口煩く何度も何度も言い聞かせている。
「ハドソンさん!!」
突然扉のむこうから、少々ヒステリックなホームズの声が響いてきた。
私達は顔を見合わせて思わずといった風に笑ってしまった。
彼は階段を上る私やハドソン夫人の足音を聞き分けていただろうし、先ほどの一騒ぎも聞こえていた事だろう。なのに、お喋りに夢中になって、いつまでたっても私達が部屋に現れないから、彼の苛立ちは最高潮に達したのだ。
いや、もしかしたら少しばかり拗ねているのかもしれない。
これは最近になって分かってきたことだが、世界一の諮問探偵は結構な寂しがり屋なのだ。
本人は絶対に認めないだろうが。
「ハドソンさん!!ワトソン!!」
「はいはい、今参りますよ!!」
ほんとに困った方ですこと、とハドソン夫人は微笑むとホームズの待つ扉へと手を伸ばした。
彼のふかす煙の臭いを懐かしく感じながら、私も彼女の後について部屋へと足を進めた。
「ただいま、ホームズ」