歪んだ恋の始まり。
人間という生態はなぜここまで興味深いのだろう。
知っても知っても底がない。どこまでも深く、そして儚げだ。
(ここまで俺を魅了するモノが他にあるだろうか。)
彼は思う。
千差万別、十人十色。100人いれば100通りの生き方がある。それぞれ個々に生命があり、人生があり、感情がある。誰一人同じものを持つ者はいない。
人類が誕生した約800万年前。人は孤独を恐れ他人との距離を縮めるため、歌を奏で、踊りを舞い、文字を生み出し、言葉を交わし始めた。そして今も尚、それらは続けられている。その努力の末、他人と全てを分かり合えた人間はいるのだろうか。
(実に面白い、不毛すぎて面白いよね?)
そしてまたここに一人、そんな不毛な事を続けている人間がいる。そんな己の生態自体も又、彼にとっては興味深いものの一つなのだ。
(人ラブ!俺は人間が好き!もっと人間を知りたい!もっと、もっと!)
***
「君、平和島静雄くん…だよね?」
まるでこの場に似つかわしくない、天から降ってきたような透き通った声音に、平和島静雄は、不機嫌な表情そのままに振り向いた。足元には数人の男が地面に這いつくばり、呻き声を上げている。学校の帰り道。つい先ほど襲撃に遭い、倒した相手だった。
静雄の名を呼んだ男は、静雄とは違う制服を身に纏っていた。確か隣の中学の制服だったはずだ。顔に見覚えはない。
男は地面に転がる残骸を一瞥すると、口端を吊り上げ、静雄を見上げた。
「君すごいね、とても強いんだ」
言葉を言いきる前に、静雄は容赦なく男の顔へと拳を打ちこんだ。
「!」
寸でのところで回避される。
「おおっと、危ないなあ」
「なぜ俺の名前を知っている」
オーバーアクションで避ける男に、静雄は声を荒げた。怒りのアベレージが最高潮に達している。
男は数回瞬きすると、意外だと言うばかりにワザとらしく肩を竦めた。
「やだなあ、君のことを知らない人間なんていないよ?」
「黙れ!」
静雄は傍の道路標識を掴むと、地面からそれを引き抜いた。男の口から感嘆の声が零れる。
「手前、何か気に入らねえな」
得体のしれない優男に、これまでにない不快感が静雄を襲った。
(胸糞悪い!)
静雄は目を鋭く光らせると、標識を男へと投げつけた。しかし男はいともたやすく、それをかわした。静雄は男の胸倉へと手を伸ばす。男は素早く反応し、静雄の腕を払い落とした。が、出来なかった。圧倒的な筋力を持つ静雄の腕は、ピクリともしなかったのだ。
「…ぐっ!」
胸倉を掴まれ、塀に力の限り身体を打ちつけられる。男の口から呻き声が漏れた。
「ハハッ、まさかここまで力に差があるとはね、想定外だったよ」
「るせえ、喋るな」
静雄は男の胸倉を掴んだまま、腕を高く上げた。男の足が宙を掻く。首が締まり、男に苦痛の表情が浮かんだ。
静雄は男の目を覗きこんだ。
(…なんだ、こいつ)
形勢は不利な筈なのに、男の眼は不敵な笑みを零していた。静雄の背に悪寒が走る。
(こいつは危ねえ!ここで息の根を止めておかねえと、危険だ!)
そんな予感が過り、静雄は右手を高く上げると、男の顔目掛けて腕を振り下ろした。
その時だった。
「平和島静雄、覚悟しろ!」
見知らぬ大群が背後から押し寄せてきたのは。
突然の事態に静雄の力が緩む。その隙をついて男は静雄の腕を振り払った。
「手前、待ちやがれ!」
静雄は逃げる男を咄嗟に追いかけようとした。けれど周囲を今しがた来た大群に囲まれ、足止めされた。
「手前ら何の用だ!どけ、俺はあの男に用があるんだ!」
静雄は次々と向かってくる男たちを吹き飛ばし、男を追いかけようとした。けれど倒しても倒しても人は減ることはなかった。結局静雄は、いつまでもその場から動くことは出来なかった。
***
「次の標的は彼?」
ニヤニヤと笑みを零す男に、新羅は呆れたため息を吐いた。
「君も本っ当に人が悪いよね、臨也」
臨也と呼ばれた男は、双眼鏡から目を離すと、向かいのソファで寛いでいる新羅へ視線を向けた。
「やだなあ、俺は人間がただ好きなだけさ」
全く悪びれた様子もなく告げる臨也に、新羅は再度ため息を吐く。
新羅が住むマンションに突然この男が訪れたのは、つい先刻のことだった。突拍子もない来訪はいつものことなので今更驚きはしなかったが、しかし碌な挨拶もせず、ずかずかと部屋に入り込み、窓の近くのソファを陣取られては、流石に温厚な新羅とて面白くはない。
臨也は薄く笑みを浮かべると、再び窓の外へと視線を戻した。階下では、新羅の記憶に懐かしい同窓の静雄が、数十人もの人間を相手に死闘していた。この臨也という男をここ数年一番近くで見てきた新羅だから分かる。あの状況を作り出したのは、全て臨也本人なのだろう。
(御愁傷様)
次々と現れる刺客を相手にしている静雄に向けて、新羅はお悔やみの言葉を一つ送った。
臨也の静雄を見る目は水を得た魚のように生き生きとしている。このイカレた男に目を付けられたら最後、良い思いをした人間などいない。
(しかしまさか他校の彼に目を付けるとは…)
もう臨也の通う中学には、彼の欲を満たす人材は居ないのだろう。どこまでも不撓不屈、百折不撓の精神を持ち合わせている男に、新羅は感服した。
「ところで君にお願いしたいことがあるんだ。――彼、平和島静雄くんと幼馴染である岸谷新羅くん?」
新羅は息を呑んだ。臨也は何食わぬ顔で、新羅を見つめた。
――どこで情報を得たのだろう。
新羅と静雄が顔見知りであること、ましてや幼馴染の関係であることなど、臨也に伝えた記憶はない。
(いやこんな情報を知ることなど、彼にかかれば造作もないか)
新羅は神妙な顔つきで臨也を見つめると、肩を竦めた。
「また君の悪い癖が始まったね、臨也」
臨也は口端を軽く上げた。
「意味は違えど彼という生態に興味があるのは君も同じだと思うんだ。ねえ?新羅」
意味深な視線を投げかけられ、新羅は苦笑した。確かに新羅にとって、常人を逸した彼の肉体は興味深いものがあった。もし可能ならばその身体を解剖し、隅々まで調べつくしてみたいという願望はある。けれどあくまでそれは「可能ならば」の話で、そもそもそこまで彼に執着などしていない。
(――けれどこの男は違う)
彼は全ての人間を愛しているのだ。愛の為ならどんな犠牲も厭わない。例えそれが自分が悪の道へ染まろうとも、標的となった人間がズタボロの雑巾のようになろうとも、彼は人間を知ることを止めない。止めれないのだ。
――全て、愛が故に。
(僕がセルティを盲目的に愛するように、臨也も全ての人間を盲目的に愛しているのだ。見返りなど考え付かない程に)
「君はノーとは言わせてくれないんだろ?」
臨也は薄い笑みを浮かべると、再び静雄へと視線を戻した。
「これも合縁奇縁、か。僕はある意味楽しませて貰うことにするよ」
君の愛の行く末を見届けるっていうね。
最後の新羅の言葉は聞こえていたのかいないのか、臨也はただ口端に笑みを浮かべるばかりだった。