オーバーロード・スナイパー(冒頭)
ただでさえくせがあって扱いづらい髪のまとまりが更に悪くなるし、何よりこの静けさが落ち着かない。
それはスナイパーとしての性質がそう感じさせるのか、それとも記憶の片隅に残る「何か」が雨を嫌なものだと認知させているのか、ロックオンには分からない。
ただ、嫌いだという感情がほとんどを占める中で、ほんの僅かに気持ちが暖かくなる時、というものもあった。
それは大抵、特に暑い日に降るにわか雨のときで、雨が降る時間もそう長くはない。
カフェテリアの軒下で雨雲が通り過ぎていくのをぼんやりと待つその時間というのは、不思議と穏やかな気持ちになれるのだ。
何故なのかはよく分からないが、それはきっと、この雨だけは別物だと頭の何処かでしっかりと覚えているからに違いない。
己の出身からして、恐らくは自立してからのエピソードが関係しているのだろう。
家族に関係するエピソードならばもう少し欧州らしい気候帯でのエピソードになる筈なのに、「これ」はどう考えてもアジアだとかもっと赤道により近い地域の気候だからだ。
こうした社会一般常識といえる知識はひとつの取りこぼしもないというのに、もっと大切だったであろうこのエピソードを共有したかもしれない相手のことは、全くといっていい程思い出せない。
そんな己が、どうしようもなく憎たらしかった。
「よう、いつもの新聞なら売り切れだぜ」
「いいさ。今日は少し散歩に来ただけだ」
小さな店を切り盛りする顔なじみの男に軽く挨拶をしながら、ロックオンは小ぢんまりとした路地を抜けて街の通りへと出て行った。
人ごみも勿論だが、ざあざあと降りしきる雨が何よりも不快だ。
自然と寄っていく眉間の皺を戻すこともせずに、持つことさえ面倒な傘を片手に歩いていく。
ロックオンの仕事内容は大っぴらに言えることではないが、直接命の危険に関わるような仕事ではない。
いわゆる情報収集を主とする軍の出先機関の末端人員、というのが今の己の肩書きだ。
治安維持という名目で存在している関係で、何かしら武器の扱いに慣れているものが多く、諜報という部署にいながら、ロックオンもライフルを得手としていた。
(どうして扱えたのかは分からないけどな)
トリガを引く指に躊躇いがないことから、ロックオンはうっすらと己の出自に気づいてはいた。
恐らく―――いや、きっと、まともな仕事をしていなかっただろう。
人を殺す狙撃手か何かだったに違いない。
そう思ってはいるものの、明確に口にしたことはなかった。
ただ、そう思っているのも知っているという風に、ロックオンを救助してこの地位を与えてくれた男は含みのある笑みを向けてくる。
その何もかもを見透かしたかのような微笑みが、実は苦手だったりするのだが…助けてもらった手前そんな事も言えず、いつも落ち着かない気分でその視線を受け止めなくてはならない。
そういう意味では、この地位すら投げ出して何処かへ飛び出してしまいたい気持ちになる。
「にわか雨だったのか―――」
ふと、雨粒が段々と小さくなっていることに気づいて、ロックオンは傘の隙間から空を見上げた。
まだまだ分厚い雲の隙間からは、ほんの僅かだが太陽の光が覗き込んでいて、雲の灰色と相俟って銀色に輝いて見える。
特に綺麗ということもない、珍しくもない色だが―――この銀灰色が、ロックオンは何故か好きだった。
この感情も、恐らくは記憶を失う前の何かが要因になっているのだろう。
恋人か何かの瞳の色だったりしたら、以前の自分はかなりのロマンチストだ。
己のあまりに滑稽な思考が急におかしくなって、ロックオンは思わず笑ってしまった。
宇宙で漂流していたところを拾われて、目が覚めると全ての記憶を失っていた己に残る、僅かな「以前の己」のこうした残滓は、足元の覚束ないロックオンの精神をひどく落ち着かせてくれる。
頭では覚えていなくても、体がしっかりと覚えていた為に分かったことは、己が狙撃を得意とする人間であったことと、英語圏の人間だったこと。
それから、何か大切なものを置き去りにしてきたらしい、という漠然とした喪失感があった。
それはにわか雨が止むのを待つ間という僅かな間だったり、晴れる寸前の銀灰の空を見上げるときだったり、何か懐かしいものを感じたときに自覚する。
この喪失感はひどく物悲しい気持ちにさせるけれど、同時にこの気持ちは孤独だったら感じることがなかったのだ、と思えば愛しく思えた。
(汚れた仕事をしていたんだろうが―――これを共有する相手がいたんだ。俺は)
その相手は、一体どんな人だったんだろう。
綺麗な人だったろうか、自分よりもずっと年下の子どもだったろうか(実際そうだとしたら驚くだろう)。
想像するにしても、顔も年齢も、ましてや性別すら思い出せないが、知らない相手を勝手に色々と想像してみるのも中々に面白いものである。
ただ情報を集めて提出するだけの退屈な日々には、こうしたスパイスが欠かせないのだ。
こんなものが欠かせないともなると、自分は相当スリルに満ち溢れた生活をしていたのだろう。
「以前の生活」を共有した相手は、今どうしているだろうか。
自身も右目を損傷した挙句に宇宙で漂っていたというから、あるいはもうこの世にいないかもしれないが…もし生きていたなら、一度は会ってみたい。
とはいえ、それは相手がロックオンのことを覚えていて、この広い世界で偶然出会えるような奇跡が起こればの話で、その可能性が限りなく低いことくらいは、ロックオンにも分かっていた。
「ロックオン・ストラトス…ね」
潜伏しているこの町では通り名として「ニール」と呼ばれているが、諜報部ではロックオンと呼ばれている。
何故かは分からないが、どちらの名前にも愛着があって、特にコード・ネームと思われる「ロックオン」と呼ばれることに、強く反応する傾向にあった。
その理由も、失われた記憶にあると分かっているが、この四年間全くといっていいほど思い出せなかった。
詳しい話は聞いたことがないが、決定的に思い出せないほどに脳が損傷しているのかもしれない。
そうだとすれば、自分は今偶然かつての仕事仲間たちとすれ違ったとしても、何も思い出せないのだろうか。
そう思うとひどく切ない気持ちが沸きあがってきたが、すぐに思考から排除して考えないようにした。
作品名:オーバーロード・スナイパー(冒頭) 作家名:日高夏