喰われたのは、
カーラジオに手を伸ばして電源を落とす。控え目に流れていた伸びやかな男のボーカルの声がブチリと単調な音を立てて途切れた。特に思い入れがあった曲ではない。ただギターとそのメロディーが美しかった気がする。そんな程度の曲。昔、流行っていた曲。くわえていた煙草を揉み消して、助手席に投げていた一眼レフカメラを手に取った。アメリカンスピリッツメンソールの残り香を肺一杯に吸い込む。ツンと香るその匂いは、初めは好きじゃなかったはずなのに。いつの間にか肺に馴染んだそれは、今となっては呼吸と同じくらい自然なものとなっている。
今から、やろうとしていることだって。
嘘をついて人を欺くことなんて嫌いだったはずなのに。舌に馴染んだ嘘は染み付いて離れない。僅かな苦みだけ後を引いて。
呼吸をするくらい自然に嘘を吐き出す口は、しかし嫌いではなかった。昔の自分が見たらなんて、ありきたりで無意味な妄想に笑う。この世界は、真面目に実直に正義を振りかざして生きていくには、あまりに息苦しい。
音もなく、自分が路上駐車している高級住宅街の路地に、黒塗りのバンが滑り込んできた。ちらりと腕時計を見遣る。深夜12時30分ジャスト。さすが、抜目ないというか。
ファインダーを覗き込んで、その車の後部席のドア辺りにピントを合わせて、目標である人物が降りてくるのを待つ。向こうからは死角になっていて、こちらの姿は見えるはずがない。次のカモは、新興財閥の幹部。裏では随分と汚い噂がある奴だが、金さえ巻き上げられれば誰だって変わらない。
黒いスーツの若い運転手がドアを開け、降りてきたのは、それよりも若い青年と呼ぶに相応しい男だった。その男は、一瞬でも目を離せば、夜に溶けてしまいそうなほどに、全てが漆黒だった。シルクを織った上質なコートが夜闇の中で翻る。
シャッターを切ると、不意に男の頭が動いて、少し逡巡した後にこちらを向いた。思わず、ファインダーから目を離す。そんな馬鹿な。そもそも常人が気付ける距離じゃない。錯覚に決まっていると、もう一度レンズを覗く。信じたくなんてなかった。息を呑んで、それでもシャッターを切ったのは長年の反射だった。
ファインダーの中で黒い男と目が合った。唯一、極彩の赤い瞳は、確実にこちらを捉えて、一度だけ微笑んだ。