blue moon
それまでベッドの上で体中の筋肉を弛緩させて横たわっていたヘラクレスの眉間に、皺が寄る。そのまますんすんと鼻を鳴らして嗅ぐと、重たい瞼を無理矢理こじ開けようとする。
(…なんで、サディクの匂い…?)
ヘラクレスの鼻は、サディクの――正確に言えば、サディクの使っているシャンプーの――匂いを嗅ぎ取った。
確かにここはサディクの家だが、夜が怖くて一緒に寝ていたのはとうの昔だ。また所謂「お付き合い」している関係ではあるが、寝込みを襲うような奴ではないと知っている。では、誰か?
ヘラクレスはそこまで考えてやっと、目を開けて見ればいいと閃いた。心地良いまどろみも去ってしまった今、未練なくその瞼を上げる。
――と。
毛むくじゃらの物体が、目の前に鎮座していた。
(…あぁ…元々毛深かったから…)
一瞬浮かんだ考えに、自分で驚く。やはり頭は覚醒しきるどころが寝惚けているようだ。
よくよく見れてみれば、この物体は見慣れている。むしろ愛おしさを持って毎日撫でているものだ。つまりは、猫がこちらに背を向けて寝ていた。どこから忍び込んだのだろうか。
ふっとヘラクレスの口元が緩む。片手を伸ばし毛に沿って撫でてやると、猫はゴロゴロと喉を鳴らした。
そう言えば、と思い浮かぶ。昼頃だったろうか。散歩から帰って来た猫は、水溜まりにでも突っ込んだのか、泥だらけだった。せっかくの綺麗な毛はすっかり汚れていて、可哀相だからと洗ってやった。その時手近にあったもので洗ったが、それがサディクのシャンプーだったのだろう。
合点がいってすっきりすると、欠伸が出た。眠気に抵抗することなく瞼を閉じ、程なくして眠りに落ちる。
翌日の夜。
同じようにうとうととしていると、ぽすん、と枕に何かが落ちる音で、半覚醒させられた。ふわりと飛んで来た匂いは、昨日と同じサディクのシャンプーの匂いだ。
脳裏に、近頃顔を合わせれば口喧嘩をするサディクの顔が浮かぶ。そして、無意識の内にヘラクレスは、僅かながらも口角を上げていた。
「安心」しているのだ。
その事に少なからず動揺していたのもまたヘラクレス自身だった。
口喧嘩、時には本気の殴り合いをするという点では本当にヘラクレスはサディクが嫌いだ。あの仮面に隠された顔を見ているとむかっ腹が立つ。――しかし。
サディクとのキスや、あの大きな手に撫でられるのは嫌いではなかった。
この相反する気持ちを明確な言葉で表そうと、長い間思索し続けてきたが、未だ答えは見つからない。
思索を始めると、比喩でなく夜を明かしてしまうのがヘラクレスだ。睡眠時間を削るのは堪らない。だから、手っ取り早く頭を切り替えるために猫であろう眼前の物体を抱き寄せた。
――はずだった。
「っな、ななななんでぃっ!?」
柔らかい毛に触れるはずの手の甲には、固く短い髭がじょり、と擦れ、腕にもサディクの固く短い髪の毛が当たっていた。
(……あ)
「…おい…お前ェ起きてたのか…?」
後ろめたさを感じている声で、サディクは後ろに向かって話しかける。しかし、ヘラクレスからの返答はない。勘違いした恥ずかしさから、寝ているふりを貫く事にした。サディクの頭を包み込むように伸ばした腕も、力を抜く。
「…寝てんのか?」
返答なし。
「…寝てんだな」
返答があるのかどうか、十分な間を置いてから、サディクは自分の顔の前に回されたヘラクレスの腕を外した。それから体全体を百八十度回転し、ヘラクレスと向き直る形にしてから、また腕を戻す。
「やいこら、ハーク」つい先刻寝てると言ったはずなのに、話す。「お前ェは寝てんし、俺も寝惚けてんでぃ。いいな?」
ヘラクレスは何の反応も返さない。それでもサディクはお構いなしに背中に腕を回した。ついでに赤くなった顔を隠すように、ヘラクレスの首筋に顔を埋める。
ぎゅう、と背中に回された腕の力が強まった。ヘラクレスはつられて、サディクの頭をより深く抱き込んでしまう。
二人の距離はさらに縮まり、ヘラクレスは自分の鼓動のうるささが相手に伝わらないか不安になった。やたらと大きく聞こえる。…まるで、二つ心臓があるかのように。
その時、この至近距離でも聞き取れるかどうか怪しいほどの、微かな声でサディクは何事か言う。
(……素直じゃない。………俺も、だけど)
その晩、気付けば二人は抱き合うようにして寝た。
――おやすみ。