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last word

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 曲がり角の手前でどこからか、チリン、と涼しげな音が聞こえた。
 菊から教えてもらった……そうだ、「風鈴」というものだった。音が聞こえた方向に目を遣ると、小さな、鉢型にされた薄いガラスが、中を突っ切った糸で吊るされていた。糸に付いた長方形の紙がふわりと風に舞っている。その様子に思わず見惚れた。
 何のために自分が寝床から起きて来たかを思い出す。トイレ(勉強して来て、菊の家風に「厠」と言ったら何故だか苦笑いされた)に立ったんだった。止まった歩みを再開する。角を曲がると、庭に面した「縁側」という廊下に出て、その突き当りにあるのだ。
 月明かりで明るい廊下に足を踏み出せば、あるものが目に入った。
 菊から貸して貰ったが、つんつるてんの浴衣から伸びる、褐色の足。
 だらしなく投げ出され、ぶらぶらと前後に揺れている。考えるよりも先に「それ」が「誰」か分かって、意識せずとも口がひん曲った。
「……何してる、サディク」
 サディクは縁側に腰掛け、ぼんやり斜め上を見上げていた。その横顔に、質問と言うより詰問の方が正しいような低い声を投げ掛ける。
「っ…んだよお前ェかい」
 サディクは一瞬びくりと肩を跳ねさせたくせに、俺に対してはどこまでも上から目線で居たいと見える。一瞥をくれると、すぐにまた顔を戻してあらぬ所を見詰める。その態度が気に入らなくて、背中を蹴落としてやろうと大股で近付く。が、その目論見はお見通しだったらしい。
 片足を上げたところで、サディクは急に振り返ると軸足にチョップを入れた。当然俺はよろけ、無様に尻餅をつく。
「ばーろーめぃ。菊さんの服汚させて堪るかってんだ」
 じとっとした視線で睨むと、サディクはにやり、いやらしく片頬を吊り上げて笑う。仮面のないその顔は、いつもよりもサディクの性根の悪さをありありと表わしていた。
 ふんっと鼻を鳴らして起き上がる。サディクはまた斜め上ばかり見ていた。そう言えば最初の質問の答えを聞いていなかったと思い出して、間を空けて隣に座りながら訊く。
「…何、見てる?」
「んー…なんつうか…」
 サディクは即答せず、珍しく歯切れが悪かった。後頭部をぽりぽりと掻いて口籠る。ぱくぱくと魚みたく何度か口を開閉してから、やっと声を出した。
「あーお前ェ、トイレに入ろうと思ったんだろぃ?」
 …と思ったら、まるで見当違いなことを言うので眉間に皺が寄った。
「そう…だけど…」
「俺も、まァ…それで起きたんでぇ」
「…答えてない」
 サディクは決して目を合わせようとせずに、そっぽを向いて話している。大概変(というか腹立つ)奴だが、今はそれに増して変だ。
「人の話は最後まで聞けってぇの。……そんで、だ。ここ通りかかったら…なぁ、」
 そこで一旦切って、息を深く吸って吐いた。サディクの場違いな、意を決したような動作に自然と首が傾ぐ。何を言うつもりだ?
「つ…月が綺麗だろぃ?」
 顔を上げて見てみた。なるほど真ん丸に満ちた月は煌々と光を放っていて綺麗だ。でも、分からない。何故それを言うのにあんなに躊躇っていたのか。確かにサディクみたいな髭面が言葉にするのは似合わないが、そんな事を気にする性分だったろうか。
 相変わらず目を合わせないで、一息ついた顔をしているサディクを見遣ると、頭に引っ掛かるものがあった。
 何時だったろう。どんな成り行きでかは覚えてないが、互いの国に残されている格言を紹介し合った。似たような意味のものもあって、意外に盛り上がったはずだ。
 その時、菊が「あ」と呟いた。「…どうした?」と訊くと、ふふっと笑って、悪戯っ子のようにはにかんで教えてくれた言葉があった。
『格言、というのもおかしいんですが…』 
 そう前置きして、言った言葉は――。
「……っ!」
 思い出すと、顔にかぁっと熱が集まるのが分かった。幸いサディクは赤くなった首筋をこちらに向けていて、俺の方は見ていない。…悟っていない振りをして、さっさとトイレ行くのが得策だろう。
 そう思った、のに。
「俺も…そう、思う」
 気が付けば、口から洩れていた。慌てて手で覆って、月が綺麗と言った直後なのに俯く。
 サディクは、俺が分からないと勘違いしたらしく、拍子抜けした顔でこっちを振り返る。背中を向けていれば良かったと後悔した。
「ハ……ハーク?」
 上擦った声を出しながら、サディクが間を詰めて来る。あぁ、くそっ!
「お、俺はトイレしに来たんだっ」
 言い訳がましく言って立ち上が――ろうとしたら、自分の浴衣の裾を踏んずけた。
 見る見る間に近付く床板。すんでのところで手を付いたが、赤くなった顔やら耳やらはばっちり見られているだろう。笑いを堪えたような、むず痒さに耐えているような、微妙な表情を浮かべたサディクが憎らしくてしょうがない。
 サディクは縁側に片膝を乗り上げて、手を差し伸べてきた。それから、とうとうぶはっと噴き出して、言う。
「…っはは、愛してるぜぃ、ハーク」
「…黙れバカサディク」
作品名:last word 作家名:SUG