full of grace
「ハイ、キク」
「ジョーンズさん」
アルでいいよ、と何度めかのお決まりの言葉を口にし、点滴を避けて枕元に腰を下ろした。
どうだい調子は、と訊くと、ええまあ、と曖昧な回答が返ってくる。初めの頃は彼のYN決めかねる発言に戸惑ったが、近ごろでは自分の気分がイエスならイエスと、そう解釈することにしている。今日の気分はイエスではなく、すなわちノーで、キクの言葉を少し聞いてみたいような気がした。
「どこか痛いところとかおかしなところがあるなら、言うといいよ」
うつろに天井を眺めていたキクはゆっくりとこちらに首を向けた。漆黒だった瞳は少しブラウンを伴い、人形のそれのように乾いて見える。
「虹が」
「にじ? 」
「虹が見えるのです。目覚めたとき、寝入るとき、晴天、雨天、曇天、ある瞬間に、ところどころ視界を蝕んで、虹があるのです。ちいさいものですが、健気にも七色で、割に美しい。その、…… とくに不都合というわけではないんですが」
言い終わるか否かのうちに、キクはびくりと怯えるように灰色の天井に目を遣った。恐らくそこにはキクの言う虹が見えているのだろう。
生憎、俺の目はそれを見ることはない。
「怖ろしいのかい? その…… 君の言う、プリズムのような…… 」
晴れた日に虹が見えるとはなんとも宗教的だ。随分多い色の虹は、キクがゆっくりとまばたきをすると去ってゆくらしい。
「不満というわけではないんです。ただ不思議で…… 」
「薬を処方させようか」
いえ、とキクは短く答えると、またこちらから視線を外した。幻視の虹。彼が喪ったものの象徴だろうか。そして自分が奪ったものの。しばしば、この存在のひどく固定されていない条件ゆえに、何かを暗喩しているような体調におそわれる。そこまで考え首を振った。プリズムが起こるのはそう、浮腫や乾燥による屈折のためであって、決してそれ以外の要因ではなかった。そして、自分自身がそう思うのであれば今の回答はイエスなのだ。
「アルフレッドさん」
躊躇いがちな声が聞こえる。彼は僕に追従して、僕のイエスに首を縦に振るだけなのに、それでも、それすら僕が望んだ通りに、彼は僕のものにはならない。
僕には見えない虹のように。
滲んだ視界には色の反射は起こらず、ただ病室の白と灰を浮き上がらせる。
「なぜ泣いて…… いらっしゃるのですか」
意を決したような菊の声。その響きはなんだか崇高だと感じながら、俺はアルでいいってば、と的外れな返事を返した。
作品名:full of grace 作家名:梓智