雀から食い荒らして
これはいったいどういうことなのだろうと、折原臨也は自分に問うた。常には人並みはずれて巡りの良いはずの脳は今日は残念ながら絶賛ストライキ中らしい。もしくは、自分の狭い脳という箱のなかで、処理しきれない現実がそこにあるか、だ。どちらとも判断しかねたが、結局どちらがどうでも同じことである。目の前にあるのは、自分の脳みそを疑ってでも否定したい現実であった。
夢かと思い、自分を殴った。覚める気配はなく、挙句、こんなもの、夢でさえ許しがたいとすら思うけれど、それでも夢の方がマシなのだろうか。いや、しかし、覚めるのが夢である。悪夢には違いないけれど、現実よりは、と無駄な思考が流れる。流れるだけでちっとも噛みあう気配はない。
さらりと素肌に触れるシーツの感触。普段であったら、隣にあるふくらみは、自分よりもずいぶん小さな少女のものであるはずだ。決して、自分よりも大きいはずも、毛布から出た髪の色が金色のはずもないのである。あまつさえ、床にバーテンダーの制服が入ってるはずはないし、床にサングラスが転がっているはずもない。
隣に寝ている男の名を、悲しいことに自分はよく知っていた。名前すら言いたくないような、自分が最低最悪にだいきらいな、というかむしろ言葉で形容することすら拒否したいような相手。なぜ、自分はそんな相手とベッドをともにしているのか。理解に苦しむ、どころではない。意味がわからない。否、わからなくていいのだ。意味などないし、無意味という言葉ですら足りない。この状況を表わす言葉など存在していないのだ。
そういうことにして、思考を振り払った。必要なことは、この現実を死滅させることで、そのために取るべき行動は、この光景の見えない場所へと行くこと。つまるところ、逃避だったのだけれど、仕方無い。目にすることが耐えきれない現実、とは絶対に起こり得ないこと、ではないのだから。
そうして逃避行動を実行に移す前段階で、フローリングの床に転がった携帯が震えて耳障りな音をたてた。感じた予感は確信と同義で、音の方へと視線を移すと、脱ぎ散らかされた服の下、健気に震えて着信を知らせる。―――そう、着信だ。決して、メールではない。いくつもある携帯の、どれか、にもよるけれど、もし、あの、細身のジーンズの下にあるものが彼女と繋がる携帯だったなら。……結局のところ答えはひとつである。泣いても笑っても。確認するべきかしないべきか。考えているうちにまわりに走った視線は、いくつかの、床に落ちた携帯を確認していた。今日の手持ちは五つ。四つめまでは確認できて、最後のひとつは彼女が知っている番号だった。そこまで、ずいぶんゆっくりと確認したというのに、携帯はあいかわらず震え続けている。予感は確信に変わった。彼女だ。他にいない。
はたして、そこに選択肢はなかった。とるべきかとらないべきか、ではない。とるの一択。仕事中だから、というごまかしは効くだろうか。案外、あとで言ってみれば、そうだったんですか、すみませんでした、というだけのことで済むのかもしれない。―――考えているうちに震えが止まった。いつの間にかつめていたらしい息を吐き出す。あとでかけなおせばいい。それで、構わないだろう。
日和る意見を否定するように再び不吉な音を立てて携帯が唸る。その瞬間に理解した。自分は、この電話に出なければならないのだ。彼女は、何かを知っている。否、知っていないのではないかもしれない。むしろ、普通に考えればそれが妥当なのだ。漠然とした予感のみで電話をかけているのかもしれない。
震え続ける携帯の音は、そんな考えを片端から否定していくようだった。とりあえず、自分はこの着信に応えなければいけないらしい。きっと、それまで、この携帯は震え続けるのだろう。
とりあえず、パンツとジーンズだけは身につけた。誰も見ていないというのに、何故か見られているような気がしたのはなぜだろう。裸のままで、通話を押せないと思ったのは、かすかな罪悪感が故だろうか。そうしているうちに携帯の震えは一度おさまり、そうして再度震えている。腰を折って手に取った携帯の画面には、彼女の名前が記されていた。携帯はあいかわらず震え続けている。通話を押した。どこか遠くへ繋がる音。聞こえてくるはずの声。
『臨也さん、ですか』
いつもどおりの彼女の声だ。怒っているわけでもないし、悲しんでいるわけでもない。ごくごく普通のトーンだった。今までの心配は杞憂だったのだろう、と思う。気にすることはない。ありえない現実を目の前に、神経が過敏になっているだけのことだろう。
そう考える脳は、きっと、先ほどまで震え続けていた携帯の意味を、もうきっと忘れていたのだ。
ぴたり、と携帯の向こうで彼女が黙った。どうしたの、という前に、その言葉はすべりこんできた。
『今、静雄さんといたり、しませんよね?』
夢じゃない現実は、残念ながら覚めることはない。