消失点の向こう側
「スペインは、スペインなんだな」
いつのことだったかはもう思い出せない。ただ馬鹿みたいに澄み渡った夕焼け空の下、吹いていた風は肌寒かったから、ちょうど夏の終わり、秋の始め頃だったんだと思う。
いつものようにロマーノは遊びに来て、俺は仕事が無かったから(嘘。必死になって終わらせた)、一緒に家の回りをぶらぶらと散歩した。ロマーノは大きくなり、そういう意味では俺の家はもうロマーノが迷った家ではなく、彼が知らない部屋はひとつもなくなった。外を歩きたがったのはロマーノだった。他愛もない話をして、でも珍しく少し真面目な話もしたかもしれない。政治とか情勢とか。
そんな中でロマーノの口から出た言葉だった。途方もなく晴れやかな笑顔だった。言葉の意味を考えるより前に、滅多に見れない彼のそんな表情に俺は不覚にも見惚れてしまったのだ。ぼおっとしていると「何呆けてんだばーか」と頭を叩かれ逃げられ、はっとなって「やったな!」と叫んでロマーノの後を追った。多分俺は真っ赤な顔をしていたから、あまり迫力は無かったと思うけど。
空が焼け焦げたような夕焼けと溶かした硝子玉のような太陽の熱ばかりが記憶のフィルムに焼き付く。鮮明に思い出される。
結局ロマーノがその言葉の意味を教えてくれることはなく、そうして俺は最後のチャンスを見逃した。あの笑顔の意味に、俺は気付かなければならなかった。俺が生涯振り翳し続けた称号の下、そして近年ようやく手に入れた両腕いっぱいのしあわせの名前の下、気付かなければならなかったのだ。
*
いつものように会議に遅刻してきたイタリアは、兄ちゃんが兄ちゃんがと壊れたように泣いていた。その言葉で全員が何もかもを悟る。ドイツが悲痛な面持ちでイタリアの頭をぐしゃぐしゃと撫で、2人の傍にいる日本はいつもと変わらない表情に見えたが眉の端が下がっていた。各々が様々な反応を示す中で、俺は泣いていなかった。ただロマーノと別れた時のことを思い出していた。いつもより素直に笑っていた気がする。事実に全く現実味が感じられず、泣いているイタリアを見ながらぼんやりと突っ立っていた。俺に声をかけるものは誰もいなかった。
「兄ちゃん、何にも言わなかった。ただ、昨日は兄ちゃんから一緒に寝ようって言って、俺は嬉しくて、同じベッドで喋りながら寝た。朝起きたら、兄ちゃんはいなくなってて、何だか分からないけど、分かるんだ、分かりたくないのに、兄ちゃんはもういないんだって」
ロマーノは弟にすら何も言わなかったらしい。今のこの姿を見てもロマーノは沈黙を貫けただろうか。
イタリアが相変わらず泣きじゃくる中、アメリカが信じられないことを言った。
「それじゃあ会議を始めようか」
イタリアがびくりと体を揺らした。同時に眉をしかめていたイギリスがぎょっとしてアメリカを見て、それから俺の方を見た。そんなイギリスの様子が視界に入らないほど、俺の意識はアメリカに向いていた。
「お、おい、アメリカ」
「何だいイギリス?今日は葬式をやりに来た訳じゃないんだぞ。イタリアはもう1人いるんだから問題無いだろう?」
問題、無い。問題無い問題無い問題無い。うるさかったアメリカの声が。もう1人残ったから何だと言う。イタリアは2人いたけどロマーノはひとりしかいなかった。そしてロマーノはヴェネチアーノのたった1人の兄弟であり、俺にとってもかけがえのない大切だった。それを、アメリカは、いとも簡単に一蹴、し、た。
お前は。
「おまえは」
ほろりと零れた言葉は誰にも聞き咎められなかったようだった。ず、と片足を上げる。信じられないぐらいに軽かった。悟る、きっと俺に足りないのは怒りだけだったのだ。毛足の長い深紅の絨毯をぐりりと踏みしめる。今度は走るつもりでもう片足を軽々と持ち上げて、
痛いぐらいの力で肩を掴まれた。邪魔をするなと振り向いた俺は相当に酷い顔をしていたと思う。ただそれに負けないぐらいに強い目をしたフランスがいた。きっとフランスはさっきの言葉を聞いていた。きっと何か言われたら俺はフランスを殴っていた。でもフランスは何も言わなかった。ただ死んでも俺を動かすまいとでも言うように俺の肩を滅茶苦茶な力で掴んでいた。その指は震えていた。
そこで俺は泣き崩れた。何がそうさせたのかは分からない。きっと本当は、いろんなことが限界だったのだ。一度堰が切れたら止められないと分かっていたから大人びた振りをして泣かなかったのかもしれない。フランスの肩にしがみつき、フランスが理由なんか持っているはずがないのにひたすらに何で何でと泣き喚いた。夕焼けがフラッシュバックする。お前は何を思って俺の前に立ったんだ。何を思ってスペインはスペインだなどと言った。ロマーノはイタリアではなくなるんだと、分かっていたとしか思えない。晴れ晴れとした笑顔で何を考えていたんだ。あれが運命を受け入れた末の笑顔とか言うんだったら、俺はきっと神を殺した。
そんなことをしゃくりあげながら訥々と訴えた。フランスは何も言わずにされるがままになっていた。フランスが俺を慰めたとしてもその言葉はきっと、フランス自身に跳ね返るものだった。ただ俺だけが、あいつの親分で、恋人だった。延々俺が喚いたことは多分フランス以外にも丸聞こえだっただろうが、もうそんなのどうでもよかった。
イタリア、イタリアの片割れ、イタリア=ヴェネチアーノの泣き声が一層大きくなった。
俺の名前と土地の名前、「お前は国なんだな」と、あの言葉がそんな意味だったのならこんなにやりきれないことは無い。
こうして、俺の子分、恋人、イタリアの片割れ、イタリア=ロマーノは、消えた。