ときめきハニー
「ときめき、って、人生においてすごく大事なことだと思うんすよ」
正臣がまたわけのわからん面白いことを言い出した。
「まあときめきは心の栄養だよな」
これは女の子の話への流れだと読み、うんうんと軽く頷く。ナンパをする時にときめきなどは必要ないが、その後にいかに女の子にときめきを与えることができるか。それが重要な鍵となる。俺に至っては、女の子と目が合うだけでときめけるレベルだが。
しかし俺の返事の何が悪かったのか、正臣はむっとした顔で俺を見据えた。
「正臣?」
「じゃあ千景さんは、いつになったら俺にときめいてくれるんですかね」
まさかこう来るとは。完全に女の子への流れをぶった切った正臣は、俺との距離をぐいと縮めた。座っているソファがぎしりと軋む。
「おまえに、って」
「だって俺が、なに言っても、千景さんなんとも思ってねえから」
「いや思ってるよ」
好きだと言われたら嬉しいし、嫌いだと言われたら悲しい。むかつくことを言われたら素直に腹が立つし、それくらいの関係は築いてきた。無論、愛してる、と言われたら、俺も愛してるよ、と答えることだってできる。
それになにがいけないのか。どうして正臣は気に入らないといった顔をしているのか。分からないまま見つめあう。
「……千景さん、好き」
「え……あ、うん、俺も、好き」
「そうじゃなくて!」
きゅっと俺の手を握って、真剣に俺に何かを訴えようとする正臣は可愛かった。しかしどうしたもんか、と俺は首をかしげる。好きに好きと言って何が悪いのか、その辺をしっかり教えてほしい。俺の困惑した表情を悟って、正臣が微妙な顔で俯く。
「……さっきの話、覚えてます?」
「今度パスタ行こうって話?」
「その後! 俺にときめいて欲しいって話!」
やっと合点がいった。正臣は、俺に軽く流されていると思っているのだ。好きと言っても簡単に返されてしまうものだから、それがどうにもむず痒くて仕方がないのだろう。
そして同時に、どこの世界に男に好きと言われて顔を真っ赤にする男がいるものか。知らないだけで確実にいるにはいるとは思うが。少なくとも、俺はその人種じゃない。正臣は少し俺に幻想を抱きすぎているのではないか、と憐れみの視線を向けた。
「ちょっとその目やめてください」
「いや……だって……ときめくってお前……」
「別に赤面しろとか慌てふためけとか言いたいんじゃないんです。ただ、せっかく愛の言葉を囁いてるのに、全くロマンティックな雰囲気にならないのが腑に落ちないんです」
そんな言葉、使うことが通常すぎて、今更どんな雰囲気を作れと。耳元で低く囁かれたなら話は別かもしれないが、その言葉自体に反応し続けるなんて無理だ。俺はやっぱりいわゆるスケコマシという人種らしいからそんな可愛い存在にはなれない。
「あの、気持ちは嬉しいんだけどさ。俺も好きだしね? でもその程度のことで本気になれってのは……」
「こんなに好きなのに」
握った俺の手を、正臣の手がすり、と撫でた。温度が生まれる。壊れ物を扱うかのように大事に、やさしく撫でている姿が、妙にいじらしかった。
「正臣、」
「俺、千景さんの手、好きですよ」
「手?」
「俺と、そこまで歳変わんないけど、なんか大人って感じがして。あったかいし。ごついし。好きです」
唐突に何を言い出すんだろう。なんともいえない違和感が背筋を走る。手がすこしくすぐったい。
「そんなの言われたのは初めてだな」
「あと、声も。少し低くて、する時に掠れる感じとかも、色っぽくて好きです」
「する時っておまえ」
「そうだ、背中。千景さんの背中きれいですよね」
「……あんな傷だらけなのに?」
「きれいですよ」
ちり、と胸の中でなにかが焦げる。こんなことをあっさりと言ってのける正臣は、俺とどこか似たようなものを感じるが、似ているからといって耐性がつくかというとそうでもない。無性に恥ずかしくなり、気がつけば目を逸らした。構わず正臣の声は続く。
「耳も好きです。首も好きです。鼻も好きです。口も好きです。目も好きです。睫毛だって。鎖骨も、肩も、ぜんぶ、ぜんぶ、」
そこまで言って、耐えきれない、と言うかのように、正臣は俺を抱き締めた。
「好きです、千景さん」
目眩がした。
くらくらと脳みそが爆ぜて、何も言えない。言葉を紡ごうとしたら喉が焼けるように熱くて叶わない。なんだ、なんだこの状況は。喉だけじゃなくて体も熱い。動けない。布のこすれあう音だけが響く。
硬直する俺の異変に気付いたのか、正臣がふと力を緩めて、俺の顔を見た。
「……あ」
目が合う。なんとなく、今の顔は見られたくないと思った。
「千景さん、まっかですよ」
――最悪だ。 まさか、こんなところで、こんな言葉で、ロマンティックの欠片もないような雰囲気の中で、こんなことになるとは思わなかった。何か言いたいがやっぱり口をぱくぱくさせることしかできない。なんだ、こんな陳腐な言葉より、もっと丁寧な言葉を、俺は知っているはずなのに!
正臣は驚きに目を丸めたあと、ふと満足そうに笑った。
「ね、千景さん、俺の好き伝わったんですか」
「……る、さいから、もうしゃべんな、おまえ」
「好き」
「いいから」
「好き」
「やめ、」
ここぞとばかりに俺の顔を抱きよせて、耳元で囁いたその言葉は、完全なトドメだった。力が抜けて、正臣の肩に額を乗せる。顔を見られたくないから、ぐりぐりとそこに押し付けた。
「今の気持ちを、一言でどうぞ」
俺の仕草が可愛くてたまらないという風に震えた声だった。悔しいがどうにも反論できる気力が沸いてこない。
これ以上抵抗するのは無駄だと賢い俺は悟り、正臣の望む言葉をそのまま口にした。
「……ときめいた」
「よし」
さっきの言葉が無意識に出た本意なのかは知らないが、あんな破壊力のあるものは、計算尽くだったとでも思わないとやっていけない。