無音世界
Lost 01. 街音
ピピピ、と電子音が頭上で鳴る。臨也はその音を無視して布団を被り寝がえりを打った。休日ではないが、まだ惰眠を貪っていたかった。
しかし放っておかれた音に臨也の考えなど伝わる訳もない。いつまでも鳴り続ける。自らは鳴り止もうとしない。それもそうだ、設定した時刻に人を起こすのが目覚まし時計の役割なのだから、設定した人物によって止められなければ鳴り続ける。途中で諦めたりはしない。電子音は延々臨也の枕もとで時間をしつこく告げ続けた。
――ああ、もう!
布団を被ったせいなのかいつもよりも音が小さく、更には殆ど聞こえない状態になっていたが、まだ頭上で鳴り続けているのかと思うと段々鬱陶しくなってきて、臨也は腕だけを伸ばしてばしりと叩いた。
粘り勝ちした電子音がぴたりと途端に止んだ。部屋の中は朝の時刻に相応しく静寂が戻ってくる。
臨也はもぞもぞと被っていた布団を下げ、顔を出した。二度寝する気分にはなれなかった。
ゆるゆると瞳を開けて横を向くと、閉め切ったカーテンの隙間から洩れた朝日が宙を舞う埃に反射しつつも、きらきらと射し込んでいるのが視界に入った。ぼんやりとその様を眺めながら、臨也は時間を掛けて意識を上昇させていく。ふありと一つ欠伸をした。
臨也はのそりとベッドから起き上がり、足を崩したままその場にぼんやりしたままと座り込んだ。同時に共に覚えた違和感に顔を顰める。
――あたま、いたい。
元々寝つきが悪く、浅い眠りばかりを繰り返している臨也は不眠症の気もあり、偏頭痛持ちだった。だから、割合頭痛を深く気にすることはない。またか、程度である。慣れたくはないが、慣れてしまいそうになるほどなので致し方ない。
ところが今回のものは何やらそうではなかった。どこがどう違うのか、と訊かれても説明は出来ないが確かに違う痛みだと臨也には分かる。何故だろう、と疑問は抱いてみる。
しかしだからといって、普段は回転の速い臨也の脳も朝には滅法弱いものだからすぐにはどうしてか判断を付けられなかった。躯が重いのも寝不足のせいなのか、それとも低血圧のせいなのか分からない。
――とりあえず、顔、洗おう。
問題は一先ず置いておいて、緩慢な動作で臨也はベッドから降りた。定刻から始める仕事に就いているわけでもないが、いつまでもだらだらとしてはいられなかった。
痛くても痛みの発生源が頭なのであれば、新羅から処方してもらった薬を飲めばやがて痛みも治まってくるだろう。いや、治まると思いたい。誰だって躯の不調を嬉しく思う訳がない。
寝室のカーテンを開けてから臨也は活動を開始する。付けたテレビは不思議なことに昨夜の消したときと同じ音量設定なのに聞こえてくる音は異様に小さかった。
ついこの間買ったばかりなのにもうこの薄型テレビは壊れてしまったのだろうか?
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自分の躯に起こっている他にも細々とした違和感に首を傾げながらも、少々仕事で用事があったので臨也は池袋に足を伸ばしていた。今は新宿に拠点を置いてはいるが、元々は池袋にいたし、定期的に池袋には踏み入れているのでこの街の様子は分かっている。昼でも夜でも行きかう人は多く、学校が休みなのかそれとも自主休講なのか分からぬ若者が闊歩してざわめきが更なるざわめきを生む。街が完全なる沈黙に包まれることはない。
ところがそれなのに今日の池袋は普段の様子と比べてみて、やけに街の雑踏や騒音が少なかった。いや、いつもと同じような風景があるのに、街のざわめきだけが臨也を置いてどんどんと遠くに離れて行ってしまうのだ。
視覚と聴覚の距離感覚が揃わない。
今しがたすれ違った若者の会話が一瞬でも此の耳に入ることなくそのまま喧騒に紛れ込んでいた。
時折耳鳴りもする。
他にも違和感を上げれば、喧しさに波がある。するりと手を抜けて何かが逃げていく。積み上げたものが揺れる、傾く。ぐわりとなにかが牙を向く。
次の瞬間走って心拍数を上げた訳でもないのにどくりと心臓が一拍ずれて強くはねた。
あまりの違和感にはっとして臨也は立ち止まる。
――何、今の。
辺りを見回し、ぎゅうと胸元の服を手で握る。何か妙な胸騒ぎがした。
しかし、周りは相変わらず人が流れていくばかりで、怪しい人物は見当たらない。立ち止まって辺りを見回す臨也を周りはわざわざ気に止めたりはしなかった。他人には無関心なまま街は蠢く。
心臓も先ほどのずれなど無かったかのように再び一定のリズムを繰り返していた。
臨也は顔を顰めた。何が原因となっているのか分からない。とりあえず確信が持てているのは、今日の此の街は可笑しい。いや、可笑しいのはそれとも自分だろうか?胸騒ぎが酷くなる。
臨也はきゅっと唇を引き結んだ。姿の分からぬ敵に用心しないことはない。混沌とした街は受容量が深い。来るものを拒まず、去るものを追わず。優しく、そして残酷。救いもすれば、簡単に見放す。
――今日は早めに帰ろう。
立ち止まる前に違和感を感じていた耳の調子については、拾う価値もない声だったのだと適当な言い訳を用意して気にすることを止めた。どうせ街の音全てを拾っていては脳がショートしてしまうし、無益なものに労力をかけずともよい。それならいっそ聞こえ無い方がいい。
頭痛は相変わらず存在をアピールしていたけれども五体満足、四肢は動く。大丈夫だ。
臨也は深く息を吸ってそれから吐くと、池袋の中の目的の場所へと向かった。
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予定通り臨也は今日の用事を片付けてきた。ただ、取引の途中何度か訊き返す羽目になってしまったのは頂けないと事務所への帰路の途中で思う。言葉に詰まるところから弱みを握られては堪らなかった。
しかしそれでも此方に不利な言質は取引相手に握らせたりなどしなかったのは流石というべきか。恐らく大丈夫だろう。
封筒に仕舞われた現金をコートのポケットに突っ込み、 臨也は街に紛れ込む。
街の喧騒は先ほどよりも確実に更に遠ざかっていた。頭痛の酷さにも拍車が掛かっているような気がする。
――ああ、鬱陶しいなぁ。
何やら鈍く痛むその場所は、よくよく考えてみれば昨夜静雄と例の如く逃走劇を繰り広げていた際に逃げ切る最後の最後でコンビニのゴミ箱をぶつけられた箇所であるということに臨也は気付いた。道理で普段飲んでいる頭痛薬では抑えられないわけだ。あの馬鹿力はどうなっているというのか。
シズちゃんめ、と心の中で悪態をつきながら、臨也はずくずくとする其処を手で押さえた。行き交う人の多い大通りから逸れて細い路地へと曲がる。喧騒は尚更臨也から離れていった。
それが運の尽きだった。いや、今日が始まった時点からもう良くない方向へと事態は転がっていた。しかし、臨也はそれを知らない。
暫く路地を行ったところで、突然臨也の真横すれすれを自動販売機が物凄い勢いで通過していった。あともう少しでも臨也が横に逸れて歩いていたら、確実に躯の何処かに強打していただろう。
もう自動販売機という何百キロの重さのものが通り抜けていった時点で、それを投げた者が誰だか分かっていた。そんな物を投げられる怪物など臨也は一人しか知らない。