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無音世界

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 兎に角、復讐さえも計算して先手を打ってきたつもりだったし、其の上で自分に怨恨を持つ者から死への切符を手渡されることも想定していなかったわけでもない。碌な死に方をしないだろうということを考えたこともあった。
 人は、将来の臨也の一番の有力死因は静雄からのものだと思うかもしれない。だが、臨也自身はそうは思わなかった。彼はあと一歩のところで実行に移せないだろう。そのことを臨也は実に不愉快だが理解していた。
 静雄はあの様に化け物と括られてしまうような怪力の持ち主だ。だが、彼自身はどうだ。暴力を厭い、厭いながらも振るってしまう自分を忌む。人が自分に寄りつかないことを分かり、諦め、だからこそ懐に入れた人間には徹底的に甘い。
 自分がその静雄の懐の中に入れられた人間だとは毛頭も思っていない。ただ、懐に入れずとも、彼の力を知って尚離れて行かない存在だという認識はされているだろう。そう臨也は客観的に把握していた。
 そうなると静雄は恐らく口ではああだこうだと言っていても、最後にその手を振り切ることはできないだろう。見す見す自ら離れていくことのない人間を遠ざけることはしない。だから、臨也は静雄による引導の渡され方はないと思っていた。赤の他人から渡されると思っていた。
 ところがである。今回のようなことは全く想定していなかった。臨也をこのような状態にさせたのは臨也を恨む者でもなく、静雄でもない。
 臨也は静雄の方へ向けていた顔をずらし、膝の上に載せた腕に額を当てて硬く双眸を閉じた。
 今だ命は散らしていないけれども、自らの内から生まれたものが根本的原因になるとは予想外だった。他人から暗殺される過程で失明するなり、四肢の内の一つを失う等と言ったものなら死へ向かう手前の部分で想定内だったのに。外からの原因なのかどうかは分からないが、もしかしたら自分自身が原因かもしれないというのは予期していなかった。
 足元が酷く不安定で揺れていた。人は感覚を持って世界と接しているのだから、その内の一つの感覚でさえ失ってしまえば世界は元の形を保つことなどできない。他で補おうとも、不十分になってしまうだろう。自分のこれからはどうなるのか。
 ぐっとせり上がってくる何かに臨也は必死になって耐えた。


 暫くすると、静雄が身じろいだ気配がした。
 これはもしや覚醒するのだろうか。臨也は顔を上げてその様子を見守る。
 静雄はのろのろと瞼を上げ、その後焦点の合っていない視線を彷徨わせた。しかし、やがて臨也の方に止まり、焦点が合う。すると静雄はがばりと上半身を上げた。サングラスを隔てることの無く直接目にすることのできる彼の双眸は大きく見開かれていた。静雄は口を開こうとする。しかし、すぐに彼ははたとして口を閉ざした。そしてどうやら腕の下に隠されていたらしいメモ帳とシャープペンシルで書きなぐる様に文字を記し始めた。
 それはあの首から上が無いセルティとの会話のようであった。
 そこでああ、と臨也は思い当たる。ここは新羅の自宅の一室だ。見たことのあるような天井はやはり見たことがあったのだ。突然意識を失った臨也に静雄がひらめいた場所はやはり馴染みのある場所だったということだ。
 臨也がやっと現在地に気付いて、なるほどと思っていると、静雄がそのメモ帳を見せてきた。セルティの様にPDAを使わないのは、恐らく静雄がその扱いに慣れてないからか、新羅がセルティの物を与えなかったかだろう。静雄の持ち物の携帯を使わない理由は分からないが、彼は件の様な力の持ち主だから何かの拍子にぼきりと真ん中で折ってしまったのかもしれないと臨也は思った。
 高校の頃から変わっていない読みづらい静雄の筆跡に目を通すと、そこには『新羅を呼んでくる』と書いてあった。何も告げずに出て行こうとしなかったのは、一重に臨也は此処から動くなということだろうか。
 分かったと臨也がこくりと縦に首を振ると、静雄は席を立とうとした。
 ところがだ、何がどうしてそうなったか。臨也の右手がひしと静雄の着ている服を掴んでいた。
 ぎょっとしたように引き留められた静雄が臨也の方を見てくるが、臨也自身も意識していないのにも関わらず勝手に動いて腕に驚いていた。
 そうして、ただなんとなくその時思った。もし彼が今目の前から姿を隠したら、最後の最後に聞こえた声さえ幻の様に消えてしまうような気がした。何も聞こえなくなってしまうような錯覚を感じた。
 掴んだ服を離そうと思うのに、できない。臨也は顔を俯けた。
 するとぽろりと星屑が零れてくるように、音が降ってきた。
「臨也?」
 臨也ははっとして顔を上げる。それは棘も何もない声音だった。思わず臨也はじっと静雄の顔を見詰める。もう一度と思いながらぱちりと瞬くと、その瞬きに併せてまた声が聞こえた。
 もしかしたらあれはただの夢の中の出来事で、何も不安がる必要もなかったのかもしれないとさえ思ってしまうほどだった。
 静雄の臨也の名を呼ぶ声は、きちんと臨也の鼓膜を震わせてくれた。
「シズ、ちゃん……っ」
 黒く冷ややかで静寂の保たれた世界に射し込んだ金色の光は再び無音の世界に音を導いてくれた。




作品名:無音世界 作家名:佐和棗