そんな夜に
「はあ。」
仕方がない。少々高いだろうが、喫茶店で飲むか。費用は‥‥後で無理矢理でも狩魔家の経費から落としておこう。そう思って御剣が踵を返すと‥‥。
「あ。」
胸元にトスン、と軽い感触がして誰かがぶつかったことが分かる。
「すみません。」
一歩下がってぶつかった人物を見れば、そこには黒いスーツに身を包んだ若い女性が立っている。その若さから自分と同じ司法修習生だろうか、と御剣は推測する。
通り過ぎようと身をかわした御剣の目に彼女が手に持っているモノが嫌でもうつる。――――御剣が買おうとしていたホットティーだった。
思わず女性の顔に目を走らせ、同じく御剣の顔を凝視していた彼女と視線が絡んだ。
どこかで見たことのある顔だな、と御剣が記憶の糸を辿りはじめるかはじめないかのうちに彼女は嬉しくてたまらない、といった顔で叫んだ。
「み、御剣さん!‥‥ですよね?」
「は?‥‥はぁ、御剣ですが‥‥。」
あまりの勢いに思考が中断されてしまう。彼女は何者なのだろうか。
「うわー、私ファンなんですッ!」
「ふ、ファン‥‥?」
(お、思い出した。)
かつて巴が言っていた、弁護士志望の司法修習生、綾里千尋‥‥だ。
思わずその名字に御剣が顔をしかめるより速く綾里千尋は声を発していた。
「司法修習生の期待の星!日本司法制度始まって以来の天才、御剣怜侍さん‥‥ですよね!」
どこで仕入れてきたのか御剣自身も知らないようなことをペラペラと話し出す。
「スゴいですよね、憧れます!」
そういう彼女のキラキラした表情を見て御剣は胸が塞がるような感覚に襲われた。
(いつか――――。)
自分にもあった。ただ、純粋に憧れてあのヒトの隣に立っていた頃が。今はもう、ヒトに憧れるなんて感覚、持てはしないけれど――――それでもなお、司法修習生の時代から既に『ノートリアス』の名を欲しいままにしている御剣に純粋に憧れてくれるヒトがいることに‥‥‥‥御剣は驚愕した。
「あ、私!弁護士を志望してるんですけど、御剣さんは何ですか?」
これほどまでに自分に憧れてくれている弁護士志望の彼女に事実を伝えるのに御剣は一瞬戸惑うが流石に隠しても仕方の無いことなので、御剣は正直に話す。
「検事を志望しております。」
かつてあれほど激しく憧れていた弁護士になる気は毛頭なかった。例えその気があったとしても狩魔豪に師事している身では不可能と言えた。
千尋はそれを聞いても大して失望した様子はなくやはりハキハキと答える。
「あ、そうなんですか!じゃあ、頑張って下さいね。御剣検事!」
将来つくであろう職名まできちんとつけて呼んでくれる。
「私も頑張りますから‥‥いつか、法廷で会いましょう!」
そういう彼女の台詞には、例え相反する職についたとしても、求めるモノは同じだ、という意志がみてとれた。
――――それは、過去と現在を結ぶたった一つの真実。
(忘れていた、な。)
今はもう、ただ純粋に憧れていたあの頃のように貴方の隣に立つことは出来ないけれど――――ならば、今。
法廷で貴方と渡り合うに相応しい検事たるように生きたい、と願うことすらあつかましいでしょうか‥‥父さん。
「では、御剣検事‥‥私は急いでいるので、これで!‥‥あ!」
一旦は去ろうとしたが、ナニかを思い出したように振り返り、千尋は手に持っているホットティーを差し出した。
「間違ってホット買っちゃったんですよ。本当はアイスティーのつもりだったのに。」
飲んでください、とホットティーを差し出す千尋のにこやかな笑顔にかつて憧れていたヒトの姿が重なる。
(――――あ。)
一瞬、怯んだ御剣の手元に暖かなホットティーが渡された。次の瞬間には重なっていたあのヒトの姿はもう消えていて――――。
御剣は遠ざかっていく千尋の後ろ姿に思わず涙を流した。
――――ホットティーが、ない。御剣が赤い売り切れの表示に眉をしかめていると、後ろから聞き慣れた声がした。
「どうしたんですか、みつるぎ検事?」
成歩堂の後ろからひょいっと首を覗かせた真宵が指を一本、頬にあてる。
成歩堂の方はそんなことを聞くまでも無く、ホットティーの売り切れ表示を見ると苦笑する。
「悪い。最後のホットティー、ぼくが買っちゃった。」
そういうと手に持っていたホットティーを御剣の手にポン、と載せる。
「‥‥良いのか?」
「いや、本当はアイスティーかうつもりだったんだよ。」
どこかで聞いたような台詞に御剣もまた苦笑する。
「やはりあのヒトの弟子、だな。」
「‥‥は?」
「‥‥なんでもない。」
――――今はもう憧れていた貴方も憧れてくれた貴女もいない。法廷に向かうあの姿もホットティーを渡してくれたあの手も。
それでも、私はきっとシアワセだ。
「成歩堂。」
「ん?」
そう答えてくれるキミがいるから。
どんなに苦しくて哀しくて切なくて涙を流す夜があっても――――そんな夜に隣にいてくれるヒトがいるのならば、彼はそんなに不幸せなヒトではない。