永久の記憶
ふっとふいた秋の涼しい風で、成歩堂は浅い眠りから覚めた。森特有の緑の薫りと鳥の声。
――――遠いなぁ、とぼんやりと思った。
夏の終わり、成歩堂は修行している真宵を迎えにやってきた。しかし、真宵と春美は森の中にあり滝にうたれていて暫く帰ってこないらしい。仕方なく綾里の屋敷の離れで待っている成歩堂の耳に僅かだが、水の音が聞こえる。
(頑張れ‥‥二人とも。)
そう心の中で呟くと成歩堂は再び浅い眠りにおちた。どうも森の中というのは夏でも涼しいらしい。
ふわり、とかぐわしい薫りで成歩堂は再び眠りから覚めた。
(何だろう‥‥この薫り。)
今までかいだこともないような良い花の薫りが成歩堂の鼻孔をくすぐる。金木犀、沈丁花、柊、楠木‥‥どれをとってもこの花の薫り以上に美しい薫りはないだろう。成歩堂は障子を開けてみる。薫りの元はすぐに分かった。屋敷の傍に大木があって、それに満開の純白の花がついている。
(‥‥‥‥おかしいな。)
一時間程前、成歩堂がここへやって来た時にはこんな大木があっただろうか。森の中だからあるいは気づかなかったのかもしれないが、こんな満開の花が咲いていたらいくらなんでも気づくはずだ。
(‥‥何ていう花なんだろう。)
成歩堂は縁側に腰かけると年甲斐もなく脚をぶらぶらさせて考えた。
成歩堂は花の名前などひまわりとチューリップくらいしか知らない。‥‥でも、この花はどこかで見たことがある。この酔ってしまいそうな程甘い薫りも‥‥どこかで。
否、似ているといった方が正確だろうか。小さくて汚れのない純白。甘いようだが、上品でどこか芯のある薫り。
そう――――この花は“彼女”に似ている。
「今年も咲きましたか。」
いつの間にか成歩堂を案内してくれた倉院の里のヒトが隣に座っていた。
「あ、どうも‥‥。」
「この木は倉院の木というんですよ。初代供子様がお植えになって。‥‥もう千年以上もたっているんです。良い薫りでしょう?」
「ええ、とても。」
千年以上。それならこの大きさも頷ける。
「供子様がお亡くなりになってから千年以上も咲かなかったんですけどねぇ‥‥三年前から毎年この日になるとパッと咲くんです。そして、一日で散ってしまう‥‥。」
三年前の今日。ナニがあったか成歩堂は知っている。恐らく彼女も知っているのだろう。
「千尋さんの‥‥お葬式があった日、ですね?」
「‥‥ええ。」
倉院の里のしきたりとかで成歩堂は出席出来なかったのだが、真宵と春美は参加したはずだ。家元の長女ということもあり、それは荘厳なもの、だったらしい。
「丁度、葬礼が終わった頃‥‥とても良い薫りがしましてね。皆で慌てて外に出たら‥‥満開でしたから。」
「千年以上、咲いていなかったのに、ですか?」
「ええ。供子様が亡くなってからは‥‥さっぱり。千尋様は‥‥素晴らしい方でしたわ。供子様の生まれ変わりではないかと言われていましたの。」
お生まになった時、供子様と同じ薫りがいたしましたから、と小さく付け加える。
「‥‥知ってます。」
彼女の素晴らしさなら‥‥十分。
彼女の美しさ?‥‥モチロン。
「供子様の生まれ変わりが‥‥千尋様で、千尋様の生まれ変わりがこの花なんですかね‥‥。きっと千尋様の魂が咲かせているのでしょう。私を忘れないように、って‥‥。」
成歩堂は少し驚いてその女性を見て呟いた。
「忘れたことが‥‥ありますか?」
名前も分からない彼女は首をふる。
「いいえ。一時たりとも、千尋様を忘れたことは、ございません。でも‥‥もう三年も経ちますから。不安なのです。皆が忘れてしまわないか‥‥。」
「きっと‥‥それは皆、同じことだと思いますよ。」
「え?」
目を丸くする女性に成歩堂は笑ってみせた。
「ぼくも忘れたことありません。彼女は‥‥忘れるにはあまりに多くのものを残していった。あまりにもぼくの人生に深く関わりすぎましたから。きっと千尋さんはまだ生きているんですよ。‥‥貴女も綾里の女性、でしょう?」
千尋が死んでも、その教えは成歩堂の中に生きている。‥‥弁護士としての、教え。そして、成歩堂がその教えを実行していく限り、彼女が死ぬことは、ない。
――――綾里の女性ならば、分かること。
「あんなヒトでしたから、誰が忘れられますか?」
「‥‥きっと貴方の言う通り、なのですね。‥‥この花の花言葉を知っていますか?」
「花言葉‥‥?」
生憎、成歩堂はひまわりとチューリップしか花の名前は知らない。花言葉なんて、尚更。
「そういえば何というんですか、この木?」
女性は木の傍まで歩いていくとそっとその幹をなでた。
「名もない木なんですよ。でも花言葉だけは伝わっている。えーと‥‥。」
「あ、もしかして“発想の逆転”だったりしません?」
「‥‥は?」
成歩堂の言葉に女性は眉をひそめた。
「あ、いえ、何でもないです。で、花言葉は?」
(さすがに違うか‥‥。)
女性は暫く考えこんでいたがやがて首をふった。
「‥‥やめましょう。きっとどんな空虚な言葉を重ねても千尋様をあらわすことは出来ませんわ。」
言葉はただのいれ物に過ぎない。そこに気持ちをこめて初めて言霊になるのだ、と彼女は言う。
(忘れましたってスナオに言えよ‥‥。)
そう心の中で呟いて成歩堂は思い直す。
――――きっと、それで良いのだ。
彼女がいない今、そんな花言葉が何の意味をなすだろう。
ただ、一つだけ、分かっていること。
あの日、誰一人として味方のいなかったぼくを彼女は助けてくれて、弁護士になるという希望までくれた。止まりかけていたぼくの時間を動かしてくれた。
‥‥だから、ぼくが弁護士でいられるのは貴女のおかげ、なんです。千尋さん。
貴女はぼくを信じてくれた。だからぼくも貴女を信じている。貴女を忘れない。そしてきっとぼくの想いに貴女が生きていることが、真実。そして証明。貴女をこれからも忘れない、という。
だからこの花が今年も咲くのは、自分を忘れさせない為なんかじゃ、ありませんよね?千尋さん。
「そう、ですか。‥‥まぁ、千尋さんが忘れられる、なんてことはありませんよ。真宵ちゃんも、いますし。」
きっと、この花が今年も咲くのは、ただ一人の強い絆で繋がれた大切なヒトを見守るため。彼女の笑顔が消えないように、と。――――その切ないほどの祈りの為。
「なるほどくーん、ごめんッ!待った?」
その時、真宵の声が森の奥から響いた。真宵は成歩堂の元にかけよると大木を見上げる。
「今年も咲いたんだねぇ、お姉ちゃんの花!」
隣に立つ真宵にふと千尋の面影を見たような気がして成歩堂は少し微笑んだ。
彼女と一見違う花を咲かせているものの、根は同じではないか。
――――一年に一度、一日だけ。それは若くして亡くなった貴女にとても似ているけれど、その薫りは一度出会えば強烈な印象を残し、ヒトを惹き付け、忘れさせなくする。
(――――弁護士はピンチの時ほどふてぶてしく笑うものよ。)
千尋さん、これからも貴女の花が咲く限り‥‥真宵ちゃんの笑顔が泣き顔に変わっていないことを証明するため、来年も、再来年もここへ来ます。そして貴女の想いを途切れさせないように‥‥十年先も、二十年先も――――。
それがぼくの出来る貴女の記憶への景仰です。
――――遠いなぁ、とぼんやりと思った。
夏の終わり、成歩堂は修行している真宵を迎えにやってきた。しかし、真宵と春美は森の中にあり滝にうたれていて暫く帰ってこないらしい。仕方なく綾里の屋敷の離れで待っている成歩堂の耳に僅かだが、水の音が聞こえる。
(頑張れ‥‥二人とも。)
そう心の中で呟くと成歩堂は再び浅い眠りにおちた。どうも森の中というのは夏でも涼しいらしい。
ふわり、とかぐわしい薫りで成歩堂は再び眠りから覚めた。
(何だろう‥‥この薫り。)
今までかいだこともないような良い花の薫りが成歩堂の鼻孔をくすぐる。金木犀、沈丁花、柊、楠木‥‥どれをとってもこの花の薫り以上に美しい薫りはないだろう。成歩堂は障子を開けてみる。薫りの元はすぐに分かった。屋敷の傍に大木があって、それに満開の純白の花がついている。
(‥‥‥‥おかしいな。)
一時間程前、成歩堂がここへやって来た時にはこんな大木があっただろうか。森の中だからあるいは気づかなかったのかもしれないが、こんな満開の花が咲いていたらいくらなんでも気づくはずだ。
(‥‥何ていう花なんだろう。)
成歩堂は縁側に腰かけると年甲斐もなく脚をぶらぶらさせて考えた。
成歩堂は花の名前などひまわりとチューリップくらいしか知らない。‥‥でも、この花はどこかで見たことがある。この酔ってしまいそうな程甘い薫りも‥‥どこかで。
否、似ているといった方が正確だろうか。小さくて汚れのない純白。甘いようだが、上品でどこか芯のある薫り。
そう――――この花は“彼女”に似ている。
「今年も咲きましたか。」
いつの間にか成歩堂を案内してくれた倉院の里のヒトが隣に座っていた。
「あ、どうも‥‥。」
「この木は倉院の木というんですよ。初代供子様がお植えになって。‥‥もう千年以上もたっているんです。良い薫りでしょう?」
「ええ、とても。」
千年以上。それならこの大きさも頷ける。
「供子様がお亡くなりになってから千年以上も咲かなかったんですけどねぇ‥‥三年前から毎年この日になるとパッと咲くんです。そして、一日で散ってしまう‥‥。」
三年前の今日。ナニがあったか成歩堂は知っている。恐らく彼女も知っているのだろう。
「千尋さんの‥‥お葬式があった日、ですね?」
「‥‥ええ。」
倉院の里のしきたりとかで成歩堂は出席出来なかったのだが、真宵と春美は参加したはずだ。家元の長女ということもあり、それは荘厳なもの、だったらしい。
「丁度、葬礼が終わった頃‥‥とても良い薫りがしましてね。皆で慌てて外に出たら‥‥満開でしたから。」
「千年以上、咲いていなかったのに、ですか?」
「ええ。供子様が亡くなってからは‥‥さっぱり。千尋様は‥‥素晴らしい方でしたわ。供子様の生まれ変わりではないかと言われていましたの。」
お生まになった時、供子様と同じ薫りがいたしましたから、と小さく付け加える。
「‥‥知ってます。」
彼女の素晴らしさなら‥‥十分。
彼女の美しさ?‥‥モチロン。
「供子様の生まれ変わりが‥‥千尋様で、千尋様の生まれ変わりがこの花なんですかね‥‥。きっと千尋様の魂が咲かせているのでしょう。私を忘れないように、って‥‥。」
成歩堂は少し驚いてその女性を見て呟いた。
「忘れたことが‥‥ありますか?」
名前も分からない彼女は首をふる。
「いいえ。一時たりとも、千尋様を忘れたことは、ございません。でも‥‥もう三年も経ちますから。不安なのです。皆が忘れてしまわないか‥‥。」
「きっと‥‥それは皆、同じことだと思いますよ。」
「え?」
目を丸くする女性に成歩堂は笑ってみせた。
「ぼくも忘れたことありません。彼女は‥‥忘れるにはあまりに多くのものを残していった。あまりにもぼくの人生に深く関わりすぎましたから。きっと千尋さんはまだ生きているんですよ。‥‥貴女も綾里の女性、でしょう?」
千尋が死んでも、その教えは成歩堂の中に生きている。‥‥弁護士としての、教え。そして、成歩堂がその教えを実行していく限り、彼女が死ぬことは、ない。
――――綾里の女性ならば、分かること。
「あんなヒトでしたから、誰が忘れられますか?」
「‥‥きっと貴方の言う通り、なのですね。‥‥この花の花言葉を知っていますか?」
「花言葉‥‥?」
生憎、成歩堂はひまわりとチューリップしか花の名前は知らない。花言葉なんて、尚更。
「そういえば何というんですか、この木?」
女性は木の傍まで歩いていくとそっとその幹をなでた。
「名もない木なんですよ。でも花言葉だけは伝わっている。えーと‥‥。」
「あ、もしかして“発想の逆転”だったりしません?」
「‥‥は?」
成歩堂の言葉に女性は眉をひそめた。
「あ、いえ、何でもないです。で、花言葉は?」
(さすがに違うか‥‥。)
女性は暫く考えこんでいたがやがて首をふった。
「‥‥やめましょう。きっとどんな空虚な言葉を重ねても千尋様をあらわすことは出来ませんわ。」
言葉はただのいれ物に過ぎない。そこに気持ちをこめて初めて言霊になるのだ、と彼女は言う。
(忘れましたってスナオに言えよ‥‥。)
そう心の中で呟いて成歩堂は思い直す。
――――きっと、それで良いのだ。
彼女がいない今、そんな花言葉が何の意味をなすだろう。
ただ、一つだけ、分かっていること。
あの日、誰一人として味方のいなかったぼくを彼女は助けてくれて、弁護士になるという希望までくれた。止まりかけていたぼくの時間を動かしてくれた。
‥‥だから、ぼくが弁護士でいられるのは貴女のおかげ、なんです。千尋さん。
貴女はぼくを信じてくれた。だからぼくも貴女を信じている。貴女を忘れない。そしてきっとぼくの想いに貴女が生きていることが、真実。そして証明。貴女をこれからも忘れない、という。
だからこの花が今年も咲くのは、自分を忘れさせない為なんかじゃ、ありませんよね?千尋さん。
「そう、ですか。‥‥まぁ、千尋さんが忘れられる、なんてことはありませんよ。真宵ちゃんも、いますし。」
きっと、この花が今年も咲くのは、ただ一人の強い絆で繋がれた大切なヒトを見守るため。彼女の笑顔が消えないように、と。――――その切ないほどの祈りの為。
「なるほどくーん、ごめんッ!待った?」
その時、真宵の声が森の奥から響いた。真宵は成歩堂の元にかけよると大木を見上げる。
「今年も咲いたんだねぇ、お姉ちゃんの花!」
隣に立つ真宵にふと千尋の面影を見たような気がして成歩堂は少し微笑んだ。
彼女と一見違う花を咲かせているものの、根は同じではないか。
――――一年に一度、一日だけ。それは若くして亡くなった貴女にとても似ているけれど、その薫りは一度出会えば強烈な印象を残し、ヒトを惹き付け、忘れさせなくする。
(――――弁護士はピンチの時ほどふてぶてしく笑うものよ。)
千尋さん、これからも貴女の花が咲く限り‥‥真宵ちゃんの笑顔が泣き顔に変わっていないことを証明するため、来年も、再来年もここへ来ます。そして貴女の想いを途切れさせないように‥‥十年先も、二十年先も――――。
それがぼくの出来る貴女の記憶への景仰です。