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心の闇

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――――『神乃木センパイ!?』
コップの割れる音。騒然とする周囲。
「や、やだ‥‥センパイ‥‥センパイッ!」
床に広がる茶色い液体を見つめて千尋はその場に崩れ落ちた。
‥‥ところで目が覚めた。
今でも、時々夢に見る。‥‥あの時、起きたことを。
「ッ‥‥いててッ!」
千尋は背中に痛みを感じながら身体を起こした。資料に目を通している間に眠り込んでしまったらしい。
(――――あら?)
自分ではかけた覚えのない毛布が肩にかかっている。この事務所には私しかいないはずなのに‥‥‥‥。
その時、キッチンの方から成歩堂がコップを二つ持ってやって来た。
「あ、起きてたんですか、所長?」
「な、なるほどくん‥‥。」
こんな時間に‥‥‥と言いかけて千尋はハッとして時計を見た。
「は‥‥8時?今日、裁判なのに‥‥ッ!」
徹夜でやるハズだった仕事なのにすっかり眠り込んでしまったらしい。
「ああああ‥‥‥‥。」
自分の不甲斐なさに哀しくなる。千尋は机に突っ伏す。隣で成歩堂のクスッという笑い声が聞こえた。千尋は少しムッとする。

「なあに、なるほどくん?頼りないセンパイで、悪かったわね!」
‥‥確かにそうなのだから、仕方がない。
「いえ。」
成歩堂はコップを一つ千尋の目の前に置いた。コーヒーの薫りが鼻をくすぐる。
「カンペキに見える所長でも、そんなことがあるんですね。」
「カンペキ、ね。人間にカンペキなんて、有り得ないのよ。」
――――あの時、倒れたセンパイを見ていることしか出来なかった私。
そんな私をカンペキなんて言えるの?なるほどくん‥‥。
「あら。」
その時、千尋はあることに気がついた。
「なるほどくん、コーヒーにミルク入れたのね。」
「ええ。あ、ミルクお嫌いでした?」
‥‥コーヒーの中に見えるセンパイをミルクは隠してしまう。
「そうね。私はブラックの方が好きだけれど‥‥ミルクも悪くないわね。」
「そうですか。」
ミルクを入れて、まだまだ子供な成歩堂はコーヒーを一口すすろうとした。
(――――あ。)
その仕草があまりにも――――あの時のセンパイと似ていて。
「なるほどくん‥‥ッ!」
千尋の脳裏にあの映像が蘇る。
「はい?」
しかし、コーヒーを飲んでもナニも起こらない。‥‥当たり前、だ。
(――――バカ、ね。)
全然似てなんかいないのに。
「‥‥ううん、何でもない。」
千尋は浮かせた腰を椅子の上に戻した。成歩堂はそんな千尋を心配そうに目で追いかける。
「どうしたんですか、所長。さっきもうなされていたみたいだし。」
「う、うなされていた?」
「ええ。」
(――――まさか。)
私はまだ、あの日の悪夢から逃げ出すことすら出来ずに‥‥?
ううん。それはきっと私が一番良く分かっていたこと。ただ、認めるのが嫌で――――本当は一時たりとも彼を忘れたことは、ない。
言ってしまえばラクになる。そんなことは分かっていた。でも、私は――――私より純粋で私より幼いこの青年に、私の醜さ全てを曝けだしてもいいのだろうか。私の弱さ全てを曝けだしてもいいのだろうか。
――――そして、もう悪夢に怯えることなく、この青年に甘えてしまってもいいのだろうか。
それは違う、と千尋は思う。彼はまだ、こんな気持ちを理解出来ないだろう。半端な馴れ合いは――――私も、彼をも、傷つけるだけ。
この気持ちを受けとめてほしい。いずれは知ることになるのだから。‥‥‥‥そんな甘え。
それでも、まだ経験を積んでいない彼には早い――――。
(え?)
経験を積んで‥‥いない?
それは違う。彼は一度‥‥私よりもツラい、恋人に裏切られる、という経験をしている。それでも彼がこんな風に明るく、強くふるまえるのは、彼が私にはない『ナニか』を持っているから。
――――その『ナニか』を知りたい。
そう思った時、千尋の口からその言葉は自然とでていた。
「私、ね‥‥センパイを一人亡くしているの。」
「センパイ?」
成歩堂は優しく問いかけてくる。
「弁護士のセンパイ。私の為に闘ってくれた‥‥。」
汚い。醜い。‥‥そんな私は放っておいてほしい。構わないでほしいのに――――それでもなるほどくんは私の闇の部分までまとめて包みこんでくれるように優しく聞いてくれる。
嫌だ。嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ。
もう、これ以上――――私の中に入ってこないで。これ以上、私の弱いところを見ないで。‥‥留めていた、センパイへの想いが溢れだしそうになるから。
センパイが倒れたあの日。私の世界は空っぽになって、何もかも分からなくなった。そして、あの日、私の時間は止まった。
――――その、時を動かさないで。
全てを話し終った後、千尋は涙を拭った。
「ごめんなさい‥‥こんなセンパイ、なるほどくんも嫌よね。どっちがセンパイだか、分からないわね。」
センパイのようなセンパイでありたかった。
――――せめて、彼の前では。
きっとこんな私の弱いところをみて成歩堂も絶望したに違いない。そう思って成歩堂を見ると、なんと彼は優しく微笑んでいた。
‥‥そして、予想外の言葉。
「そんなツラい思いしても、弁護士でいられるなんて、千尋さんは強いんですね。」
――――強い?私が?
お世辞でもなんでもない、本気の目。私の中の弱さを知って尚、私を受け入れてくれる、そんな広い心。
(――――あ。)
――――止まっていた時が、緩やかに動き出す。
本当に強いのは、貴方。
きっと彼は他人を否定することを知らない。‥‥もちろん、自分を否定することも。自分を否定したら、他人の肯定なんて、出来ないから。
その優しさが時にはあのように彼自身が傷つく結果となるのかもしれない。‥‥けれど、その優しさこそが弁護士に必要なもの。
私は少し、自分を否定しすぎた。
「なるほどくん。」
(――――ありがとう。貴方は天才よ。)
その言葉はいつか来る日の為に心の中に閉まって。
「コーヒー、もう一杯いれてくれるかしら?」
「は、はい。」
成歩堂は嬉しそうに頷く。
「ミルクいれますか?」
コップを持って立ち上がる成歩堂。その姿がいつもより大きく見えて――――。
「ええ、いれてもらえる?」
晴れない心の闇など無い、と。そう千尋に教えてくれていた。
「所長?」
「‥‥ナニ?」
「ぼくはいなくなりませんよ。」
「‥‥‥‥。」
成歩堂の精一杯の言葉に思わず笑ってしまう。
きっと彼にも分かっているのだろう。例えそれは嘘だとしても――――この嘘のような現在の中でその言葉がどれだけの力を持つのか、を。
欲しいのは、優しい嘘。残酷な真実は、いらない。
「知ってる。」
千尋はクスリと笑う。
ならば、嘘だとしても、それで良い。
その代わり、もう少しだけ――――この嘘のような現在を。
そして時は今から確実に動き出して。例え緩やかでも、これからはきっと、止まらないでいてくれる。
――――そんな根拠のない、貴方への確信。
作品名:心の闇 作家名:ゆず