煉獄
side S.A.
それは、繰り返し見る悪夢。
目を背けたくなる程におぞましくむごたらしい、【彼】の記憶。
突然の出来事だった。
宅配業者を装って坂上家に立ち入りを果たした男は、応対した【彼】の母親をいきなり押し倒した。短い悲鳴を上げた彼女の口腔に脱がせた下着を押し込み、暴れる彼女に殴る蹴るの暴行を加えた上で犯す。
ちょうどその頃シャワーを浴びていた【彼】が物音に気付いたのは、脱衣所に出た時だった。
不審に思った【彼】は急いで身体にタオルを巻きつけ、音のする方へ向かいながら母を呼んだ。
やがて【彼】が目にしたのは、激しい暴行を受けて無惨な姿となった母親を、それでもなお飽きたらず冒涜している男の背中だった。
【彼】の存在に気付いた男は、恐怖で足がすくんでいる【彼】に近づき、蔑むように笑う。そして──そして。
母親と同じ目に遭わせようと、拳を作り振り上げられる腕。【彼】が目覚めたのは、その時だった。
まるで自分が体験したかのように生々しく再現されるその光景。どんなに違う結末を求めても、いつも同じ惨劇に終わる。
……やがて何も知らない僕が玄関の前に立ち、インターホンを鳴らす。応える者がいないのを不思議に思って試しにノブをひねると、ドアは抵抗なく開いた。
そこで僕が見たのは、血まみれの【彼】とふたつの遺体。
目を覆いたくなるような惨事におののきながら、僕は【彼】に駆け寄り、その手に握られた洋包丁を目にして、全てを理解した。
何もかも手遅れだった。救えなかった。
【彼】は己の力で自分の身を守り抜いたその代償に、記憶を歪めた。
未成年である事、正当防衛であった事、そして情状酌量された結果として、【彼】は男を殺した事に対する咎めを受けなかった。
精神的なショックからか三日間眠り続けた【彼】は病院のベッドで目覚め、傍らに座る僕が目に入った時、花が綻ぶような笑顔を見せた。
とてもあんな事件を経験した直後とは思えなかった。その違和感の正体は、【彼】と言葉を交わすうちに明らかになった。
僕が【彼】の名を呼ぶと、【彼】は不審げに首を傾げて訂正したのだ。
「──?誰ですか、それ。僕の名前は〈修一〉ですよ、昭二さん」
その事を医師に告げると、はじめに多重人格障害が疑われた。しかし【彼】は人格を分裂させたわけではなく、自分が〈坂上修一〉という名前の中学三年生の男子生徒だと思い込んでいるのだということが、次第に明らかになった。
──女性であるが故に襲われ、成す術もなく蹂躙された……【彼】はそんな観念によって、「男であれば傷つけられない。奪われない」と思い、ショックから己を守る手段として、偽りの性を仮面とすることを選んだのだろう。
既に父親を亡くし身寄りのなかった【彼】を引き取った僕の両親は、医師からそう説明を受けたらしい。
性別に関する認識以外に、彼には変わったところが何ひとつなかった。そこで両親は、【彼】を男子生徒として鳴神学園に通わせることにした。
僕の父は鳴神学園の校長だ。その地位を濫用して、すべてのお膳立てをととのえた。
四月。小鳥のさえずりによって目覚めた荒井昭二は、身体を起こすなりカーテンを引き開けて朝日を浴びた。
ただ、日付が変わっただけに過ぎないのに、何故こんなにも清々しい気分になるのか。
理由はただひとつ。今日からは【彼】が自分と同じ鳴神学園に通うことになるからだ。
支度を済ませてダイニングに向かうと、真新しい制服に身を包んだ【彼】は既に食卓についていた。
「あっ、おはようございます、昭二さん」
「……おはようございます、“修一君”。今日は早いんですね」
言い慣れぬ名前。荒井は少しの痛みを覚えながら、それを隠すように微笑みかけた。
荒井はひとつ年下の幼なじみである【彼】を、妹のように思い大切にしていた。【彼】もまた荒井を慕い、懐いていた。
誰よりも大事な存在なのだと気付かされたのは、傷つけられてしまってから。
自分が【彼】を奈落に突き落とした男と同じ生き物である事を、荒井は憎悪した。
もう二度と、誰にも触れさせない。
「楽しみなんです、昭二さんと同じ学校で過ごせるなんて。お昼は一緒に食べましょうね!」
その笑顔を守るためならば、どんな罪でも犯すだろう。