スイミー
くるりと躯を反転して、水面を向けば、輪郭が滲む銀鏡と月影がきらきらと揺れていた。手を伸ばしてみても水をかくばかりで何も掴むことは当然できない。
静まり返った水の中で、臨也は一人ぼっちだった。
沈み、沈み、しかし、彼は抵抗しない。抵抗すれば、拒むことを知らぬ水は逆に絡みついて放してくれなくなってしまう。ぶくぶくと海底に引きずられ、そのまま水籠の中で寵愛されるなど、真っ平ごめんだった。
だからこそ、躯から力を抜く。そうすれば浮力でゆっくりと臨也の躯は自然と水面に浮かんでいった。浮かんでいく間に肺に残っていた全て空気を吐き出した。ごぼりごぼりと音がして、臨也を置いて空気の方が上に向かう。外の世界と触れあえばぱちりとシャボン玉が消えるようにその泡沫も消え去り、空に溶けた。
ゆるゆると浮かんでいって、やっと臨也は水面から顔を出す。ぷかりと浮かんで新しい空気を空になった肺に目一杯取りこんだ。するとプール独特の塩素の臭いがつんとした。
「何やってんだ手前」
ふいに、星では無く声が降ってきた。水の上に浮いているからそのまま頭を動かして確認することも叶わず、臨也は一旦プールの底に足をつく。
昔は身長よりも深い底に、足のつかない恐怖に駆られた時期があったはずなのに、今の身長では顔を出して息もできた。
「その言葉、そっくりそのままシズちゃんに返すよ」
「手前が変なメール送ってくるからだ」
「変なメール?」
はて、そんなもの送り付けただろうか。臨也は小さく首を傾ぐ。
「なんだよ、手前が送ってきた癖に覚えてねぇのか」
もう老化でも始まったのかと静雄が嗤う。見下したようなその嗤い方が気に喰わず、臨也は思わずむっとした。嘲る静雄がほらよ、と煌々と光を発する液晶を此方に向ける。
臨也は水底を蹴った。すい、と躯が水を掻きわけて前へ進む。臨也はたん、たん、と底を蹴って静雄が立っているプールサイドへと近づいて行った。
ぱしゃりぱしゃりと水が揺れて、波紋が広がっていく。
臨也に対して怒り狂っていなければ常識的な人間である静雄であるから、流石に土足でプールサイドに踏み込んで来てはいなかった。闇に溶ける色をしたスラックスの裾は既に捲りあげられていて、静雄の足首が見えた。
臨也がある程度まで近付くと、すっと静雄がしゃがみこんだ。
このまま手を上げて水を飛ばせば、静雄は当然濡れるだろう。臨也は不意に悪戯心に駆られる。それはいつものことだった。ぴたりと彼の目の前に着いたところで、臨也はむずむずと水面下で手を燻らせる。だが、今はまだ尚早。
それにしても静雄が見せてくる画面はただ明るさばかりが肝心の中身が光に目が眩んでよく見えない。
ちょっと貸して、と臨也は濡れた手で伸ばす。
すると、突然ぐいと頭に力が掛かった。
「ちょっと、シズちゃん……!」
ぐいぐいと静雄は臨也の頭を押さえつけてくる。その力に素直に従えば臨也はこのままぶくぶくと水中に沈められるのだろう。どう考えてもそうするつもりで押さえつけられている。余りの力に膝が若干折れつつも、臨也はばしゃばしゃと水を掻き、あぷあぷとしながら声をあげた。伸ばした手が無様に宙をきる。
「何、俺を溺死、させる気なの?!」
「手前、今碌なこと考えて無かっただろ」
「いやいや、そんなことないから、……ッ?」
――何、だ?
脚は付いているのにまるで溺れているような動きをしている臨也が先ほどから所在なく伸ばしたままの手を静雄が握る。右の手で臨也の頭部を押さえつけて水中に沈めようとしているのにも関わらず、引きあげるように左の手で細い臨也の手を握るその様は誰が見ても相反するものだった。ゆるり、と何を思ったか静雄が臨也の人差し指の周りを撫でる。そこに何か変わった何かがあるわけではない。何も、ない。普段其処にあるはずの何もかも――。
与え慣れていないその奇妙な感覚がむず痒くて、臨也は静雄に掴まれたままの右手を振り払おうとする。力を込めればあっさりと彼は離れていった。しかし、相変わらずぐいぐいと水中に静雄は臨也を押し込もうとしてくる。全くもって、意味が、分からぬ。
声を荒げる為に大きく開いた口にプールの水が入ってきた。
不味い。汚い。
吐き出してしまいたいのに、ごくりと嚥下してしまって臨也はぐっと眉根に皺を寄せた。
気持ち、悪い。
「ふざ、ける、な!」