後継
「……どうして?」
柔らかな布団の上に身を横たえたまま、ぼんやりと呟く。
信長に向けられた銃口を覚えている。引き金に掛かった指が、動いた瞬間も確かに見た。
低く鈍い音。襲い来た衝撃。硝煙の匂い。固い床の感触。目に映る天井。
独眼竜と虎の若子。自分を覗き込んだ、哀れみと怒りの煩瑣する瞳――。
「あ、気が付いたね」
発せられた声に思考が遮られた。顔を巡らせれば、部屋の隅に一人の青年の姿があった。装束から察するに、何処かの国の忍と思えたが、少なくとも市には見覚えはなかった。
「……あなた、は?」
「名乗るほどの者じゃないよ」
軽く肩を竦めて言った青年は「ちょっと待ってな」と言い残し、身軽に部屋を後にした。取り残された市は、ゆっくり想いを巡らせる。
「みんな……夢なの……?」
そう思いたかった。
けれど違う。あれは紛れもない現実だ。もし、夢であるのなら、市の隣には長政がいる筈。けれど今、市は独りで、見たこともない部屋に寝かされている。
「……どうして?」
もう一度、市は呟いた。
ならば、どうして――自分は死ななかったのだろう。
程なくして市の元に訪れたのは、政宗と幸村の二人だった。
彼らの口から、ここが甲斐であることを知らされた。そして、先刻まで傍に控えていた青年は真田の忍であり、彼女を救ったのが彼であったことも。
市は信長に撃たれたと思い込んでいたが、実際のところ鉛玉は体に当たっていなかった。信長が意図的に避けて撃ったのか、それは今となっては解らない。いずれ彼女は、間近に受けた衝撃の強さに、気を失っていただけだったらしい。
「なんで……市を助けたの……」
それを聞き終えた市の唇が漏らしたのは、彼らに対する礼ではなく、むしろ問責の色さえ含む言葉であった。僅かに眉を顰めた幸村が口を開きかけたのを押し止め、無表情の政宗が言った。
「――そんなに死にたかったのか」
冷たい声だ、と思った。けれど市には、その冷たさがむしろ心地良かった。
「だって……長政様は、もう、いないのよ……兄さまが、殺したの……」
そして、それは自分という存在が招いた結末なのだと、市は信じていた。だから自分は、もっと責められなければならないのだ、とも。
「魔王のおっさんは、俺たちが討った」
「濃姫様もいないの……市が……この手で……」
政宗の言葉には耳を貸さず、市は再び呟いた。それを聞いた独眼竜は、深く重い溜息を吐く。
「わかったよ――浅井の嫁さん」
しばしの沈黙の後で、ゆっくりと政宗は口を開いた。
「あんたが、どうしても死にたいってんなら――俺が手を貸してやる」
立ち上がった彼は、脇に刺した刀をすらりと抜く。
「目、瞑ってな」
「ま、政宗殿っ!」
「Shut up!」
幸村の上げた非難の声を強く制し、政宗は刀を振り上げた。布団の上で半身を起こしたまま、思わず市は強く双眸を伏せ身を強ばらせる。
死にたいと。
一人で生きてなどいたくないと。
そう思う心は嘘ではなかった筈なのに、一瞬確かに恐怖が彼女の体を支配したのだ。
空気が大きく揺らいだ――けれど、予測していた痛みは訪れなかった。
恐る恐る目を開ければ、今まさに政宗は、刀を鞘に戻した瞬間であった。
「Okay――これであんたは死んだ」
気が付けば、市の周りには黒髪が散乱していた。刀の切っ先は市の体ではなく、彼女の髪を幾房か薙いでいたのだ。
「髪は女の命、って言うだろ?」
何事か言いたげな表情を向けた幸村に軽く笑いかけた政宗は、再びその場に胡座をかくと、改めて市の顔を覗き込んできた。
「浅井の嫁さん。あんた、自分じゃ気付いてないかも知れねぇが、本当は生きたいんだよ」
「そんなこと……」
「なら――どうして黙って魔王の嫁さんに殺されなかった?」
思いも寄らぬ言葉だった。市は息を飲む。
「確かに浅井長政は死んだ」
言って政宗は、何処か嘲るような笑みを向けてくる。
「悪ぃが、馬鹿な奴だと思うぜ。魔王なんかと手を組んで、挙げ句後から撃たれたんだからな」
「長政様を……悪く言わないで……」
市は唇を噛み締めた。その様を見た政宗は「悔しいか」と聞いてきたけれど、市は答えられなかった。悔しいのは確かだ。けれど――何が悔しいのかを説明することが、自分でもできないのだ。
「馬鹿な奴だよ」
もう一度政宗は言った。一層強く唇を噛む市の耳に、
「だが――俺は、ああいう男は嫌いじゃねぇ」
そんな言葉が届いたので、思わず彼女は顔を上げて政宗を見た。声は以前冷たい色をしていたが、それを発する政宗の浮かべる表情は、先刻の嘲笑を含んだものではなく、もっと穏やかで優しい笑みであった。
「あいつは最後の最後まで、自分のRealを貫いた。なかなか出来るもんじゃねぇよ。なあ、浅井の嫁さん。あんた――そんな男に惚れた自分を、そんな男に惚れられた自分を、もっと信じてみたらどうなんだ?」
「市殿」
それまで黙って成り行きを見守っていた幸村が、静かに口を挟んできた。
「某は未だ若輩者故、貴殿の想いを全て察することは難しゅう御座る。だが――これだけは申し上げたい」
今度は政宗も口を挟まなかった。ただ静かに、彼の横顔を見詰めている。
「残された者には、残された者としての責務がある。それを某、此度の戦で思い知らされた。だから貴殿にも、それを果たして欲しい。どうか生きて、生き抜くことで、浅井殿の想いを継いで差し上げて欲しいのだ」
「長政様の……想い……」
「うむ」
ぼんやりと繰り返した市に、幸村は真剣な顔で頷いた。
市は口を閉ざし、思考を反芻させた。生きて長政の想いを継ぐ。長政の信じた正義を継ぐ。本当に自分に、そんな生き方が許されるのだろうか。自らの内に流れる魔王の血は、それを許してくれるのだろうか。どれだけ考えても、答えがでなかった。
そんな心中を察したのか、小さな溜息を漏らした政宗が、苦笑めいた声を投げてきた。
「ま――どうしても死にたくなったら、そのときは俺の元に来な。今度こそ迷わず旦那の元に送ってやるよ」
市はゆっくり顔を向ける。
「あなたが……市を……殺してくれるの?」
「ああ、約束する」
力強く揺るぎない声で、政宗は断言した。
「あんたは、いつでも死ねる。だから――生きてみろ」
その言葉を最後に政宗は立ち上がり、そのまま部屋を出て行った。幸村はそれ以上何も言わず、ただ一度深い礼をすると、急いで政宗の後を追っていく。
そして再び、市は一人になった。
もう一度市は想いを巡らせる。許されるのか。許されていいのか。生きられるのか。生きていていいのか。やはり考えてみても、答えはでない。
けれど。
自分はいつでも死ねるのだ。本当に死にたくなったときには、独眼竜に会いに行けばいい。
ならば、その約束をお守りのように胸に抱いて。
とりあえず、生きてみよう、と。
そう、思った。
【終】