昨日の敵は今日も敵。
しかし、そもそも彼はこのような展開を望んでなどいなかった。彼は人間が嫌いだった。憎んでいた。滅ぼしてやるつもりだった。だからこの現状は、誰にも予測できなかったはずだ。
「新しい名前で生きろ」
彼にそう告げた武藤カズキにだって、予想できなかったはずだ。彼がこのような形で人々の中に生きているなんて。
そしてその武藤カズキは今、早朝の街角の自動販売機の前で空に向かい『彼』の本名を叫んでいた。
「蝶野――――っ!!」
それは『彼』が嫌悪し、捨てた名前。
「ちょーうーのーこーおーしゃーくー!!」
蝶野攻爵。地を這う芋虫の、名前だった。
「しつこいぞ、武藤カズキ」
しかし、彼は現れた。とうの昔に捨てたはずの名前に反応し、応え、カズキの目の前の自販機の上へと降り立った。
「こんな朝早くに貴様はいったい何を」
しているんだ、と続くはずの言葉は「蝶野!早く!こっち降りて!」という叫びに遮られ掻き消された。彼がしぶしぶ降りてみると、カズキの手によって自販機へ向き合わされる。
「さあ選べ。早く!」
「………………」
何も訊かずに、彼は目についたボタンを押した。がこん、と鈍い音がした。取り出し口からカズキが取り出したのは彼が選んだトマトジュースだった。
「はい」
その缶を彼へ差し出すカズキをよく見ると一方の手にすでに自分用と思われるジュース(美味しくなさそうなタイプの青汁)が握られている。しかしそれだけでは状況がさっぱり把握できない。彼は既に視線で以ってカズキへ説明を求めてはいるのだが、カズキはただ、普通に彼に缶ジュースを差し出すだけである。
「……武藤」
「ん、なに?」
「何故俺は貴様から奢られているんだ」
とりあえず、ジュースは受け取った。
「あー、買ったらたまたま当たりが出ちゃったからさ。でも一人で二本も飲みたくないし。お前なら呼んだら来るかなぁと思って」
「………………」
「間に合ってよかった。流石、蝶野」
にこにこしているカズキに対し彼は白けた目をしている。それでも、長い爪をプルタブに引っ掛けて缶を開けて、中身を口にする。カズキもそれに倣い、紙パックにストローを刺した。
「しかし蝶野も意外と早起きだな。なんとなく夜型っぽいイメージなんだけど」
「貴様こそ、こんな時間に何をしているんだ」
さっき言いそびれた質問の出番がやってきた。
「ええと、自主トレ?」
曖昧に上がった語尾が、彼の好奇心を動かす。
「何のだ」
「何のって……走ったりとか腕立てしたりとか」
「内容など聞いていない。目的を聞いているんだ」
以前だったらこれは意味のない質問だった。武藤カズキが自身の体を鍛えることには明確な理由があった。錬金の戦士として、パピヨンやその他のホムンクルスと戦うという目的があった。
しかし今は違う。ホムンクルスは月へ渡り、錬金戦団は活動を停止し、カズキは普通の高校生に戻った。自主的にトレーニングを行う理由はもう、ないはずなのだ。
彼の質問の裏のそういう思考を汲み取ったカズキは苦笑いで「ああ」と息を吐いた。
「なんとなく習慣になっちゃったんだ」
「戦いを忘れられないのか」
間髪を入れず彼が言った言葉に、カズキは少し笑顔を引っ込めた。
「未だ戦いを望むのか。戦士でいることを辞めないのか」
断定のような質問。二人は互いを見詰めて、内側を探り合う。敵意ではなく、かといって友好でもない不可思議な空気が流れるが、彼にとっても武藤カズキにとってもそれは決して不快なものではない。
(こんなふうにオレに向き合う奴は蝶野だけだ)
そう考えてカズキはまた笑い、「違う」とはっきり彼の言葉を否定した。
「戦いを望むわけじゃない。戦わず済むならそれが一番だ。でも、もしまた戦わなくちゃいけなくなったら、その時オレは弱くなってちゃいけないんだ」
戦いたいのではなく強くありたいだけ。カズキの答えに彼は口元を緩め「ふん」と息を吐いた。
「そうだな。貴様はまだ、強くある必要がある」
缶の中身を一息に飲み干してから、彼はにぃっと嗤って、言った。
「この俺がいつまたこの世界を焼きつくそうとするか、わからないからな」
彼が見つめる先で武藤カズキはきょとんとしている。
「なんだその反応は」
「や、だってさ、蝶野」
不満そうな彼にカズキは笑う。爽やかににっこりと。
「お前はもうそんなことするつもりないだろ?」
このセリフを受けて彼が眉間に皺を寄せたところはカズキには見えなかった。それは双方にとってどうでもいいことだった。彼は「フン」とだけ返答代わりに吐き捨てて飛び去った。
「蝶野ーっ またなー!」
カズキは空へ向かって大きく手を振る。
彼が投げた空き缶がきれいな軌道でごみ箱の中へ落下していった。
作品名:昨日の敵は今日も敵。 作家名:綵花