五月になれば彼は
緑の匂いが清涼な風に乗って鼻孔を擽る。街の中は冬の景色が嘘のように緑に溢れていた。なるほど、前の冬に訪ねた際、どうせ来るなら5月か6月にしておけばいいのに、とロシアが眉間を顰めるわけだ。ステレオタイプな冬のモスクワの印象からは、想像もつかない光景である。
明るい日差しに、濃い緑と新しい緑が折り重なって、街に溢れるキリル文字がなければ、到底ロシアの街とは気付かないかもしれない。
全体的に鈍重な雑踏は相変わらずだが、やはり人々の顔も、冬のそれに比べれば明るく溌剌として見えた。その雑踏の中に、如何にもうんざり、と言う表情を浮かべた、よく見知った顔を見出す。アメリカはその顔に対抗するように、めいいっぱいの笑顔を浮かべて手を振った。ついでに、アメリカの姿を認めても、ちっとも急ごうとしないロシアを急かせることにする。
「やあロシア! 君の言う通りでびっくりしたよ!」
「ちょっと、外では名前で呼んでって言ってるでしょう」
作戦は覿面に効を湊した。小走りに長身が近づいてきて、早速頭の上からアメリカを睨みつける。
「ほんとに冬と全然違うんだな」
「この辺にはちゃんと、四季だってあるんだから」
「無いところもあるのかい」
「……うるさいな。野宿したいの?」
「いちいち怒るなよ。せっかくこんなに街が綺麗なのに勿体ないだろ」
「誰が怒らせてるのさ。上司の命令じゃなきゃ、今頃ぼっこぼこだからね、君」
ぼっこぼこ、に力を込めて言うロシアは、何だか滑稽で、思わずアメリカはサムズアップを繰り出した。
「ははは! 望むところさ」
一通りきな臭い挨拶を交わすと、ロシアはさっさとアメリカに背を向けて歩きだした。荷物を持ち、慌ててアメリカも後を追う。
街をゆく人々の大方が春物のジャケットや、気の早い向きはすでにTシャツ一枚で闊歩しているのにも関わらず、ロシアは未だにコートを着てマフラーをしっかりと巻き付けている。ただ、冬のものとは違い、それぞれ生地が薄くしなやかなものにはなってはいた。ひらひらと目の前を揺れる、柔らかそうな生地は色も淡く、アメリカはつい延ばしかけた手を引っ込めた。マフラーの端など引っ張れば、ロシアは人目も気にせず、得物を振り回すに違いないのだ。
「どこまで行くんだい」
「すぐそこに車を置いてるから」
「助かるよ」
地下鉄の駅からロシアの居宅までは、車で10分ほどだった。ソヴィエトの解体後、ロシアが移り住んだ新しい居宅は、以前よりも随分と小さくなり、場所は郊外から街中になった。一人で暮らすなら、便利な方がいいでしょ、とはロシアの言だ。それでも一般の住宅に比べれば随分と瀟洒で広いし、中に入ると街の騒音は一切聞こえなくなる、良い家だ。
よく使い込まれて、既にボロの域に達していると思われる濃紺のベンツは、すいすいと街路を抜けて、見覚えのあるアイアン製の背の高い門扉の前に止まった。
「降りて、荷物下ろして。車片づけてくるから」
「おっけ」
客間に入ると、暫くしてロシアが茶器を携えて入ってきた。銀盆の上には、色違いのリボンを可愛らしく結んだジャムの小瓶がずらりと並んでいる。
「そのジャムは今年の新作かい?」
「まあね」
うきうきと身を乗り出したアメリカに、ロシアは得意そうに顎を逸らした。
「こっちは今が旬のイチゴ。これは冬にとれた木イチゴに、黒スグリ、あとは去年の残りだよ」
一つ一つ手にとって、手書きのラベルを覗くが、当然キリル文字を使ってロシア語で書かれているので、アメリカには解読不能だ。
「おすすめはどれだい」
「甘いのなら今日はイチゴ、甘酸っぱいのならアンズだし、酸いのならスグリかな」
「甘いのが良いんだぞ!」
「もうすぐブリヌイも焼けるけど、そっちにはミックスベリーが美味しいよ」
かつては家の中に多数の国や使用人を入れて、自分では縦のものを横にもしなかったロシアが、今は一人で生活していると聞いて、最初アメリカは酷く心配した。ロシアの生活を、ではない。上司の命令で面会に赴くことになった際に、果たしてまともな食べ物を口にできるのかどうかを、心底危ぶんだのだ。
いざ来てみると、些か殺風景だったが、アメリカの足の踏み場もない、散らかり放題な自宅よりもよほど居住性は上で、更に甘いもの限定だが、ロシアの作る料理は美味かった。砂糖や蜂蜜をたっぷり使った甘い菓子が好物だと聞いて、我ながら現金なものだが、ロシアに対する印象は、多少良くなった。
他に咎めだてする人間がいないのを良いことに、滞在中の三日間を心行くまで甘い食べ物で過ごせたのも大きい。初めの方こそ嫌悪感丸出しだったロシアも、出されたものを美味い美味いと次々完食していくアメリカに、最後には表情を和らげていた。俺たちの仲は、もしかしたら甘い食べ物が取り持ってくれるのかも、とさえ思う。それで世界平和が保たれるのなら、体重の増加や成人病がなんだというのだ。以降、二人は水面下の限定されたシチュエーションでだが、割合良好な関係を保っている。
ロシア風にイチゴジャムを舐めながら濃い紅茶を啜り、取り留めないことをつらつら考えているうちに、ふわりと甘い、バターの匂いが漂ってくる。ごくり、と唾を飲むと、大皿にうずたかく薄いクレープのようなパンケーキを重ねたロシアが、エプロン姿のまま現れた。
「はい、ブリヌイ」
「わお! 美味そうじゃないか! 早速頂くよ!」
言い終わる前に、アメリカはフォークで一気に二枚を突き刺し、自分の皿に引きずり込むと、勧められたミックスベリージャムと、濃いクリームをたっぷり乗せて口に頬張った。熱々のふんわりした生地に、ジャムの甘酸っぱさと、濃厚なクリームが絡んで大変に美味い。行儀良く一口ずつ口にしているロシアは、しかし、美味い美味いと喚いては口の中一杯にジャムとブリヌイを詰め込むアメリカを、行儀が悪いと注意することもなく、何となく擽ったいような顔をして眺めている。
山と積まれていたブリヌイは、色々なジャムを取っ替え引っ替え試しているうちに、すっかりアメリカの胃に収まった。
「ああ、美味かったよ。ご馳走様」
「甘けりゃ味なんてどうだって良い癖に」
憎まれ口を叩いているが、嬉しそうな表情を隠しきれないロシアに、アメリカは一言、おかわり、と皿を突き出した。
流石のロシアも一瞬目を丸くし、ついで吹き出す。そして、仕方ないなあ、と呟きながら奥の部屋に皿を持って立ち去る。その後ろ姿を、アメリカは目を細めて見送った。