馬
厚い、鈍色の雲の切れ間から、思いがけず鋭い光線が差し込んで、アメリカは額に掌を翳した。どこまでも続くかと思われる平らな灰色の丘は、まだ秋の口だというのに、もう冬のような、よく冷えた土の匂いをこぼしている。
何もかもが灰色混じりだ、とアメリカは嘆息した。青空さえ、淡い青に灰色が混じっている。大人しいから、と言われた傍らの馬は、顔は可愛かったが、しかし、アメリカの言うことなど殆ど聞かなかった。本国では自在に乗りこなせているのに、とアメリカが四苦八苦して馬を宥めているうちに、ロシアは一人さっさとどこかへ消えてしまった。小一時間ほど一人で悪戦苦闘したものの、結局振り落とされて今に至る。馬は、アメリカのことなどまるで省みず、悠々と草を食んでいる。
丘の向こうに小さな黒い陰が現れたのは、それから三十分ほどしてからだ。徐々に近付いてくるその陰を、アメリカは忌々しく待った。
陰は、重々しく長いコートと、いつものロングマフラーをこれ見よがしに翻し、左肩にはライフルを担ぎ、堂々たる威風を見せて馬を疾駆させるロシアだ。日頃ののんびりした、というよりはいっそとろそうな姿からは想像もつかない。間延びしたいつもの喋り方を忘れたように、時折鋭い声をあげて、自在に馬を操っている。アメリカの知っている英国式の馬術とは違う、馬と一体になっているかのようなその姿は、悔しいことだが、まるでどこかの民族伝承の英雄のようにも見えた。
なお暫く、ロシアは曲乗りすれすれの乗馬を猛スピードで続けていたが、アメリカの姿を認めると、狂ったような走りを止めて諾足で近付いてきた。
「もう乗るの止めちゃったの」
「風が冷たいんだよ」
まさか振り落とされて、乗せて貰えなかったとは言えない。
「乗ってると温まるのに」
「そりゃそんな乗り方してたらね」
馬はよほど酷く走らされたのか、身体から湯気を立てて、止まった後もぜいぜいと息を付いている。ロシアもまた、ウシャンカの隙間から額に髪を張り付かせ、白い頬や鼻先を真っ赤に染めていた。あれだけ動き回った後であるのに、ロシアは額以外殆ど汗を掻いていない様に見える。化け物め、とアメリカは内心で呟いた。単に汗を掻きにくい体質である、ということを知るのは、もう少し先である。
「気持ちいいのに」
「俺は自動車かバイクの方が好きなんだぞ」
「カウボーイは君の専売特許じゃなかったの」
皮肉げに頬を歪めたロシアが、暑くなっちゃったと言って、馬上でコートの前釦を外すのを、アメリカはうんざりと見上げた。ふと見ると、鞍には兎が吊されている。兎を目にした途端、アメリカは空腹を覚えた。
「そろそろ腹が減ったよ」
「そう、じゃあ帰ろうか。君を飢えさせたら、後で何て言われるかわかんないや」
「別に何も言わないぞ」
「そう? てっきり、ロシアでは未だに満足な食事もでない、って言われるかと思っちゃったぁ」
「言われたいのなら協力は惜しまないぞ」
いらいらと顔をしかめたアメリカに、ロシアはふふと機嫌よく笑う。
「本当にお腹空いてるんだねえ」
「早く帰りたいんだぞ」
地団太を踏みかねないアメリカの様子に、ロシアはすいと手を差し出す。
「じゃあ、特別サービス」
「何だい? ロシアにサービスなん、」
その手をアメリカが取るや否や、最後まで言葉を継ぐ間もなく、ロシアの前に引っ張りあげられた。
「な、何するんだ!」
「早く帰りたいんでしょ。ここから歩いて帰る気? 時間かかっちゃうじゃない。ちゃんと掴まっててよ。落ちても知らないからね」
返事も待たずにロシアは拍車で馬の胴を蹴り、馬を走らせ始めた。どうやら振り落とされて乗せて貰えなかったことが、あっさりばれていたらしい。
「ちょっま、い、ロシ、」
「下手に喋ると舌噛むよ、黙って」
馬の鬣と、周りの景色がびょうびょうと流れていく。一人で乗っていた時の数倍強い風に、アメリカはぶるりと震えたが、それは寒さのためだけではない。バイクで疾駆するのとはまた違う、さながら生身で空を飛んでいるかのような感覚があった。
ハッ、ハッと馬とリズムを合わせて息を吐くロシアをちらりと振り返り、見遣ると、その口元はうっすら釣り上がり、目は思い切り遠くを見ていた。その表情は恍惚、と言ってもおかしくはない。
「前向いてないと、落ちるよ」
「解ってうわぁ!」
突然障害物を飛び越えるように、馬が跳ね、アメリカの身体が一瞬宙に浮く。真っ逆様になったアメリカの身体を、ロシアは腕一本で釣り上げ、ぶん、と振り回してまた馬背に引き上げた。
「ほら、ねぇ」
「い、今のわざとだろ!」
「うふふ。どうだろうねぇ。大人しく僕の言うこと聞いてね」
鬣にしがみつきながら、アメリカは喚いた。冷や汗がどっと背中を伝う。そのまま首の骨でも折りかねなかったのだ。国の移し身であるから、死にはしないとはいえ、痛みは常人同様に感じる。そして鐙は一人分しかなく、それに足を入れているのはロシアで、アメリカは馬の胴に手足の力だけでしがみついているだけなので、不安定極まりないのだ。悪ふざけにしては、質が悪い。
しかし実際に馬を操っているのはロシアであり、馬の背にすら乗せて貰えなかったアメリカにはどうすることもできない。ぎりぎりと歯噛みしながら、アメリカは地平線を睨んだ。
どうしてロシアと遠乗りなどに来てしまったのか、今更ながら悔やまれる。好奇心は猫を殺します、と言っていたのは確か、日本だ。その時はよく解らなかったが、今ならよく解る。鈍くさそうなロシアがのたのた馬に乗るところを見て、思い切り笑ってやろうと思った数時間前の自分が恨めしかった。
「兎、」
「何?」
「その兎、食べるんだよな」
「食べたいの?」
「食べたい」
「3、4日、待てる?」
「……仕方ないんだぞ」
獣の肉が、すぐ食べるより、少し置いて熟成させた方が美味しいのは、アメリカもよく知っている。
「ふふ。ほんと食い意地張ってるよね」
「……」
吐く息に紛れて、ぽつりと聞こえたロシアの声に、アメリカは思い切り眉を顰めた。するとロシアは、悪びれもせず
「そういう素直なところ、好きだよ」
などと言う。確かに料理に釣られて、ものの数秒でモスクワ延泊を決めてしまったが、酒、特にウォッカのためなら手段も過程も選ばないロシアに笑われるのは心外だ。
だが、激しい揺れに振り落とされないようしがみつくのが精一杯のアメリカには、それ以上の反論は叶わなかった。せめて美味い料理を食わせてもらわないと、割に合わないからな。自分自身への言い訳を内心で呟き、アメリカはそっと嘆息した。