泡沫
【泡沫】
男の腕を引っ掴んで、くるりと身体を反転させれば、相手は声もなく驚き、しかし抵抗はなかった。
どくりと心臓が血液を吐き出す音がして、冷えた身体の熱を上げて行く。
何処行くの、と叫ぶ男の声が背にかかる。ひとたびちらりと振返れば、そこには特徴のあるフェイスペイント。見覚えのある顔だった。確かこれはこいつの忍だったはず。だけど今はどうでもいい。
掴んだ腕の体温は何処か懐かしい。政宗がこの男に触れたのは、正しく今が初めてだというのに。
幸村の手を引いて足早に廊下を駆けていく政宗を、数人の生徒が振り返り、そうしてすぐに興味を失っていった。
「何処に行かれるのか、…政宗殿」
時代錯誤も甚だしい、その独特の喋り方は、彼が正しく真田幸村だということを証明していた。
無言で手を引く政宗に、幸村は周りの目を少しだけ気にしながら、それでもよく通る声で再び政宗どの、と尋ねた。
政宗はそれには応えず、この学校で唯一出入りの出来る屋上へと向った。
扉の手前の踊り場まで一気に駆け上がる。後ろの幸村も息を崩した様子はない。
政宗はおもむろに、扉へと手をかける。鍵が掛かっている様子はなく、直ぐにがちゃりと音がする。そこは鍵が壊れていて、生徒の誰でもここに立ち入ることは出来るのだが、実際その存在を知る人は少ないのだろう。政宗は、入学してからすぐにこの場所を見つけた。つまそれはごくごく最近の話だ。おそらくこの場所を知っていても、この時間にわざわざここに来るような輩は政宗以外には進学校であるこの学校には、あまりいないのだろう。他の同級生や先輩に出会ったことはまだなかった。
この時間、というのはつまり授業中ということであり、今自分たちが行なっていることはいわゆるエスケープというヤツだが、自分に関しては今に始まったことではない。
幸村の方はは移動教室だったのだろうか、その手には教科書と筆入れが抱え込まれたままだった。突然こうして連れ出したことを非難されるかと思ったが、以外にも幸村は黙ってついてきた。幸村の中にも、幾許かの驚きと色々の感情とが、自分と同じようにその胸のうちにわだかまっているのだろう。
首元まできっちりと着こまれた幸村の学ランの校章の色は赤い。政宗のものは青い色をしている。この学校は学年毎に校章の色が違うのだ。成程、そういうことかと政宗ひとりごちる。今では、ふたつも年が違うということになる。
(何年…何百年ぶりだろうか)
思わず掴んでいた幸村の、自分よりも遥かに熱い手首の感触に、政宗は心中でほうと息を吐いた。
赤を見れば胸が疼き、炎を見れば血が騒ぐ。そしてその後に襲い来るどう仕様もない虚無感に、すうと体が冷えていくのをいつも自覚していた。
これはもう、一種の病気のようなものだ。仕方のないことだと、諦めて生活することを決めた、矢先の邂逅だった。
後ろ手に扉を閉める。がちゃん、と耳障りな音がして、その古い扉は現在自分達の居る屋上と、踊り場から続く日常とをはっきりと隔離した。
「会いたかったぜ、幸村」
思っていたよりも、自然にその言葉が出てきた。
それには勿論、嘘偽りはない。
政宗に応えようと口を開く気配がして、おそらく自分もだ、とでも言おうとしたのだろうか。
けれどその唇は半端な感情を語る事は出来ずに、ただ何事かを言い淀んで、そのまま口を噤んだ。
その気持ちは、よく、解る。
「政宗殿も憶えているとは思っていなかったでござる」
「そういえば、さっきアンタの忍もいたな」
「…佐助はあの様に、まったくで」
「どっちが良いとは言わねぇけどな」
自嘲気味に言えば、不意に背後の気配が変わった。
原因はすぐに判った。それは幸村が放っている殺気だ。
幸村の独特のそれはいつも政宗の身を焦がしては、血液を沸騰させ何処か冷えた心の底をぞくぞくとたぎらせるのだ。
そして咆哮を上げながら身に纏うその炎は、自分自身を焼き尽さんばかりに美しかった。
それは酷く懐かしい感覚だった。
(忘れられる筈なんて、ないな)
等分の殺気を返してやろうと、そう思った瞬間政宗は我に返った。
「…馬鹿野郎、」
そんな目で見るな。
指摘すれば、意識したものではなかったのだろう、幸村はハッと息を呑み、途端その場の緊張がすぅと緩む。
「…失礼致した」
会いたかった。本当にもう一度会いたかった。それは確かな事実だった。
しかし、再び出合ってしまった今になって政宗を襲っているのは、幾許かの後悔だった。
会えば、如何なるかはお互いに理解っている筈だった。
出合う事が目的じゃあない。相手の存在に焦がれ過ぎた所為だろうか。失念していたのだ。
もう一度出会いたかった。けれどそれだけじゃあなかった。
漸く、ようやくあの時の結末を迎えられると思ったのに。
互いの思考は、新しく生まれ出たこの穏やかな世界にはそぐわない。
古びたフェンス越しに見える、当たり前の光景にも慣れた。
本来ならば、悟られてはいけない感情だった。
穏やかでぬるまったい春の此の空気は、今の自分達には酷く…不釣り合いだった。
けれど、また出遭ってしまった以上、自分達の過去良く見知った赤に昂ぶりを感じてしまうのだろう。
それきっともう、どうしようもないことなのだ。
いつの間にか隣りに並んだ幸村が、低く、小さな声で呟く。
「…某とて、判っているつもりでござる」
「ああ」
(目に見える限りのこの世界が幸せなことも分かっている、けれど)
(けれど)
変わり映えのない緩やかな日常を寂しげに睨み付けながら、どちらともなく呟いた。
「――此処は、平和過ぎる」
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殺せない