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師匠の目は黒い。光すら通さないんではないかと思うほど、黒い。沼のようだし、インクの染みの様でもあったし、暗幕のようでもあった。短いまつげがそれを縁取る。
 背丈は俺よりは高い。けれども俺は身長が高い方とは言えないので、師匠がそれほど大きいという証明にはならないと思う。ひょろりとしていて、猫背で、インドアの方が似合う。
 それから、にたりと笑う。あまり気持ちのいい笑いではないし、いつも彼はなにか分析しているみたいにこちらを見ている。笑いながら、無表情に、あるいは暴言とかを吐きながら。
 とにかくそんな男が俺のオカルト道の師匠だ。危険なことをするためだけに一緒にいる。怖いところに行くためだけに一緒にいる。
 みんみんと蝉の声がうるさい。鼓膜を支配する。鍵のかからない(このころになると俺は師匠が鍵をかけないのではなくて、物理的にかからないのではと思うようになっていた)アパートメントの扉をあけて、部屋に寝転がっている師匠をみた。値下がりした九千円の部屋は、その中で誰かが死んだという。
「なんだ、なんか面白いことでもあったか」
 師匠は俺が訪ねるとそうして興味をもつ素振りをする。
「逆ですよ。面白いことないかと思ってきたんです」
「ねえよ」
 吐き捨てるようにいって師匠は、のっそりと立ち上がった。不潔な人間の臭がする。もう何日風呂に入ってないんだろう。この人は。
「歩くさんこなかったんですか?」
「あー、なんか忙しそうでさー」
 聞くと彼の彼女である(この場合三人称ではなく、彼氏彼女の彼女だ)歩くさんは数日間友人と旅行に出かけているらしい。それから彼はシャワーを浴びずにまる二日過ぎているという。この糞暑いのに。
「臭いですよ師匠」
「うるせー」
「シャワーくらい入りましょうよ」
「僕そんな真面目な生活してない」
「でも気持ち悪くないですか?」
「気持ち悪くはないが、すこしベタベタするな。そういえば今は夏か。しかたない。風呂入りに行こう」
 一緒に行った風呂屋で俺はしこたま怖い話を聞かされ、その肩にかかろうとする白い手を師匠がさっと払うのを見た。
 風呂屋から出ると、でた瞬間から汗が噴き出た。無駄だったか。いや、とりあえず師匠はくさくはなくなった。もう夜も近く、日は山の向こうに消えていて、空だけが赤い。
「暑いな」
「そうですね」
 蝉の声が鼓膜を破ろうと響く。師匠の唇が何かを紡ごうとして、動く。俺にはその声が聞こえなかった。けれども聞こえたフリをした。師匠は振り返らなかった。
 仕方がないから俺は、師匠を先回りして彼の顔を覗き込んだ。なんか面白いことがないかな、と思ったからだった。まだ明るいのに、彼の目はやはり黒く、どこかに光を落としてきたみたいだった。
「なんだよ」
 彼が不器用に笑った。にやりでもにたりでもなく。
「お、その顔初めて」
「しらねーよ」

 最近夏になるとその光景をよく思い出す。おかしなことだ。なぜ、彼との冒険の方ではないのだろうか。強烈な思い出ならうんざりするほどたくさんあるというのに、決まってそれを一番最初に思い出す。
 窓の外を見ると、木々の緑が強い日差しに透けている。蝉の声がする。俺は今でもたまに記憶があやふやになる出来事に出会う。その度に、師匠の言葉を思い出す。それから声を思い出そうとするけれども、うまくいかない。
 俺の中で彼の存在が曖昧になる。彼の輪郭。彼の髪の毛。彼の匂い。はっきり思い出せるのはその深い目の色だ。記憶の中にいるだけの人は、この世ならざるものなのだろうか。
 彼の存在を証明するものは他になかった。写真もない。彼自身を写したヴィデオもない。
 街で彼を見かけたら、記憶は塗り替えられるのか。夏ごとの蝉の声のように。
 自動ドアをくぐり、うだるような暑さの中一歩目を踏み出した。「暑いな」と口に出しても、彼の声はとんと思い出すことができなかった。
作品名: 作家名:ペチュ