某日某所にて
灰色の壁が均等に並ぶ路地を二人は走る。歓声と、ドリルがコンクリートを穿つ音と、流れる楽器の音色が遠ざかっていく。体中の細胞がふつふつと泡立つような興奮に身を任せ、手に半身のそれを強く握りしめたまま、ただ誰もいない、二人だけでいられるところへ。兄が弟を手を引いて、仕事で使っていたオフィスの空き部屋の一つへ身を滑り込ませたのは、それからほどなくしてからだった。
鍵が壊れている窓を開けて、もう使用されていない部屋へ忍び込む。息は上がっていたし、体中が痛かった。しかし、そんなことは気にならない。
「ヴェスト」
「……」
窓枠を越え、先に部屋へ入ったプロイセンが、ドイツに手を差し伸べた。一瞬の間の後、繋がった手に引っ張られ、ドイツもまた室内へ足を踏み入れる。がらんどうな部屋は、いくつかのデスクと、壁際のキャビネットしか置いていない。人の出入り自体が久しいそこはホコリっぽかったが、換気をする余裕はなかった。どくどくと、繋いだ手から相手の脈が感じられた。部屋の中は暗く、月明かりもまともに届かなかったが、掌から伝わる体温と、その僅かな光を吸い込んで光る相手の眼はハッキリと分かるのだから問題はない。
「……ヴェスト」
「に、いさん……」
互いに突然の報告を受け、着の身着のままで飛び出してきたのでひどい格好だった。寝巻きの上にコートを羽織っただけ、と言い換えても差し支えないくらいだ。髪も整えてなどいる暇はなかったし、コート以外の防寒具など、プロイセンはマフラーを首にまいているだけ。ドイツにいたってはそれすらもなかった。海外旅行の自由化、その施行時期、関門へ押しかける民衆達。すべてが怒涛のように流れ、渦巻いた熱はついに壁へ穴を空けたのだ。法の上ではどうであれ、もう、この勢いを押し留めることはきっと出来ない。二人はひとつに戻る。
「……ああ」
呻くように息をついたのはドイツだった。赤紫の中に映る自分の顔。その頬に、伝わるものがあった。
「あぁ、兄さん、にいさんっ」
兄の手を引いて、腕の中へ強く抱き込んだ。自分の背へ腕がまわれば、同じくらいの強さで抱きしめられた。その、自分より細く小柄な体にたまらない愛おしさと焦燥を覚える。伝わる震えに、ただ涙した。同時に、自分の中に彼がいるというその実感に安堵した。もう離さないし、放さない。柔らかく細いが、それゆえに痛んだ髪へ鼻先を埋めると、自分の知らないシャンプーの匂いに混じって、確かに兄の体臭がした。
「俺のヴェスト」
掠れた声が耳元で囁く。
「顔を見せてくれ」
ひと時たりとも離れたくなかったが、彼が言うとおりにする。強い力を秘めた目元はそのままだが、全体的にやつれているのは見間違えようがない。時間がかかるかもしれないが、きっと元に戻そう。そう心に決めながら、最後に見た時よりも、また一回り削げた頬のラインを指でなぞった。すると、その口元がふわりと弧を描き、見えなくなった。焦点が合わなくなったのだ。毎年涼しくなってくればヒビ割れそうになる唇へ、皮がめくれた兄のそれが触れ、離れ、鼻先へ、頬へ、口付けは繰り返された。
「ヴェスト」
唇が紡ぐ。
「帰ったら、お前が作ったクーヘンが食べてぇ」
ささやかな、けれどずっと叶わなかったその我侭に、ドイツの答えはもちろん一つしかない。嗚咽が漏れそうになる口を無理矢理引き伸ばして笑みをつくり、泣き笑いで一言返した弟の頬に、兄は音高らかにもう一度口付けた。