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[APH]弱さに添って眠らせて

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俺の心はだれのもの?

てっきりこれは俺のものだと思っていた、の、だけれど



 どくん、と大きく心臓が高鳴って、俺は跳ね返るように、ベッドから上半身を起こした。

 汗が額や掌に構わずびっちりと浮かび、荒い呼吸を性急に繰り返す。寒い、とにかく寒い。体が冷えて寒いのとは感じが違う、これは内側から発する病だ。苦しくて寒くて泣きたくて、ひどく居たたまれない気分になる。自分の顔をぺたぺたと触ると、あんまり大きく目を見開いているのが分かって自分で驚いてしまった。

 そのまま腹に両手を当て、体をくの字に折り曲げる。ごろん、と横に転がった。

 眼を閉じ、呼吸を整えようと正しく息を吸う。寒くて寒くて歯がガチガチと鳴るのを、ギッと食いしばって押しとどめた。落ち着け、まだなにも始まっちゃいない。まだ、なにも。



 独立戦争後、大いなる絶望と幻滅とをまぜこぜにした感情を味わった彼は、掌を返すように俺の家を嫌うようになった。

 もっとも俺の家も同じで、徹底した英国嫌いが巷で渦を巻いている。今や嫌英感情を露わにしなければワシントンでの地位が保てないほどのありさまだ。誰も彼もが唾を吐き悪口を言ってる。彼の、彼の家の。

 恐れと羨望とが入り交じった微妙な感情だ。なにせ、彼は俺を失っても栄華の最中にいる。俺を失い弱った隙をついたはずのフランシスを、話で聞くだけで引いてしまうくらい徹底的に打ち倒し、俺に独立されたことで一時期衰えた威信をすっかり取り戻してしまったようだ。もし彼が本当に、本当に心の底から望むなら、今の俺を完膚無きまでに撃滅することができる。なにせ単純にパワー比べをすれば、かたや栄華を極める超大国、こちとら負け続きの戦闘を、しかし粘り強くこなして、やっとの事で独立を果たした新興国だ。軍事力においては、なおそれだけの差がある。どんなに嫌ってもなかったことに出来ない、圧倒的な差。国全体で追いつけ追い越せとやってはいるけれど、現状はなんとか外交で上手く渡り合っているだけだ。

 そう、今までは上手くやっていたのだ、外交の駆け引きで彼を出し抜き、鼻をあかしたこともあった。本来共同で出すはずの声明を、うちで抜け駆けで出した後の、彼の表情は・・・正直、思い出したくないな。

 それでも、彼は何も言わない。自らの失策だと分かっているからだ。外交は上手くやったもん勝ちで、抜け駆けされないように根回しするのも策のうち。勝てば官軍、だから彼はあのとき黙っていたんだ。

 でも今回は違う。彼は怒っていないだろう、かといって黙っているはずもないだろうと思っていた。思っていて、ついにきた。
 彼が静かに、日頃から装う無表情で外交官に言葉を伝える様子が目に浮かぶようだ。

 彼は言った。

 「かの紛争の後、アメリカの国内裁判で、もしカナダの英臣民が処刑されることがあれば、確実かつ迅速に対米戦争が始まる」と。



 俺は、漏れそうになる呻きを掬って押し戻すように口に手を当てる。彼の鋭利なエメラルドの視線が、海を越えた遙か、遙か遠くに居るはずなのに俺を見透かし射貫くようで、もうどうしようもない。

 体が凍る、軋む、ひどく怯えている。

 英国の直接的な脅威は、なんとしても避けねばならなかった。ここまで圧をかけられて押し返せるほど、今の米国にパワーなんてない。もちろん、英臣民に手出しできるはずもなかった。



 ・・・彼はきっと今、こんな風に苦しむ俺を見ているんだろう。でも助けない、俺たちはもう嫌い合う他人だから。

 独立の日、雨の夜に泣いた日を境に、彼はすっかり乾いてしまったようだった。あれ以来全く涙は見せず、計算尽くの外交、ギリギリの綱渡りのような八方美人、そしてえげつないまでのしたたかさで飾る三枚舌はいよいよ本領を発揮しているという。

 独立直後、まだ昏倒させられる前のフランシスが言ってた。「何もかもが昔に戻ったみたいで、ある意味すげえ生き生きしてるわ、大迷惑だけど」って。

 つまり、そういうことなんだろう。彼は、俺を得る前の『日常』に戻って行ってしまっただけなんだ。彼は、俺が掬い上げたかった彼の幸せもろとも、今や俺の手の届かない場所へ失墜した。暗くて冷たい栄華の中で、笑顔の下に冷徹を張り付かせている。翠の瞳が、ただ自国の繁栄だけのために細められる。いっそ潔いまでの、徹底した自己淘汰、自己矛盾、自己否定を繰り返し、それでも平然とそこにある。その強さのために、彼自身が振り捨て握りつぶし消してきたものが一体何なのか、その全容を誰もが知り得ないにしても、それでも誰もが知っていることがあった――彼は、あまりにも多くのものを失いすぎた。そして、それ故に備わる美しさ、危うさ、はかなさが、ひどく魅力的なのだということも。

 独立前から、それが本来の彼だと知っていたし、覚悟もしていたはず。だった、のに

 俺は胸ぐらを両手でぎゅっと掴んで、体を小さく小さく丸めて呻きながら、涙を押さえた。

 結局、独立前に俺がしたいと心に決めたこととは、正反対の場所へ来てしまった。彼は、他の者では正気さえ保てない、彼の『日常』の中へ還ってしまって、もはや彼の衣に触れることすら出来ないのだから。

 俺は、彼を助けたかった。彼と対等になって、彼の『日常』からはかないものを取り戻したかった。彼が毎日目を覚ましては、平然と握りつぶして殺してしまう”弱い彼”を助けたかった。それだけを願っていたのだ。だってその彼こそが、幸せを持っていたから。

 彼を、全部丸ごと支えられる生き物になりたいと、彼が何も削り落とさずに生きていけるように守る存在になりたいと、そう思って彼と袂を分けて自由を選んで、だというのに、この有様で。

 俺が独立したことで結局彼は苦しんで、いや、いまや苦しんでいることすら分からなくて、すっかり昔のように潔く掃いて捨てて奪って殺して騙して煽って、泣くこともなくて。

 ああ、だからかな、こんなに涙もろいのは。俺が彼の代わりに泣いているのかな。苦しい思いを貰っているのかな。だとしたら、今だけ、今だけは泣かせてほしい。この夜が明けるまでは。彼のために、泣けない彼のために、俺が泣くから。


 これは彼の心?俺の心?分からなくなる。花のしずくが水にしたたっても、すぐとけて混ざって消えてしまうように。

 俺の心はだれのもの?

 てっきりこれは俺のものだと思っていた、の、だけれど



 でも、これで良いのだと思う。今だけ、俺は弱い。本当に弱い。俺の心に悲しみが馴染む。優しさが頬を寄せる。嘆く声が悲しく響いている。すべてがすべて、居場所を無くして消える、一瞬前の残り香だ。彼が草木の一本まで絶滅させたはずの、弱い彼の残滓だった。

 だから、いいんだ。今だけは

 苦しいし泣きたいしひどく弱るけれど、
 今俺が出来ることといったら、彼が切り捨て燃やし尽くしたものに寄り添って、もはや消えかけのその幸福を、優しくなだめて眠るくらいしかないんだろうから――