甘くて苦い
たたたっ、と渡り廊下の先から軽やかな足音が聞こえてきた。
この屋敷の中で唯一駆け回るのは子息である赤毛のこどもだけだ。
ガイは踏み出していた足を引き戻す。それと同時に突き当たりの角から滑り込むようにして姿を見せたこどもに、小さく笑った。
「ガイー!!!」
「はいはい、お呼びですか?ルーク坊ちゃん」
駆け寄ってきた勢いそのままに腰元へタックルしてきたルークの身体を受け止めながらガイがいうと、ルークは一瞬だけむっとした表情を見せたがすぐに大きな瞳を輝かせた。
「ガイ、おれ、あいすたべたいっ」
「アイス?」
「メイドがあいすはあまくておいしいって。たべたい!」
「あー…、食べたいといわれてもな。ここにはアイスなんてないと思うぞ」
「えええー!」
たべたいいいぃぃぃ、ルークが叫びながらガイの服をぐいぐい引っ張って駄々を捏ねはじめた。
ガイはお喋り好きなメイドを恨めしく思いつつ、ぴーぴー鳴いているこどもの頭の上に手を置いた。途端、ぴたりと大人しくなったルークにガイは膝を折って目線を合わせる。
「じゃあ、下町に行って買ってきてやるからな。それでいいだろう?」
「ガイいくのか」
「俺じゃないと行けないだろ」
「やだ」
「やだって、お前ね…。俺にどうしろっつんだ」
ついつい口調悪くぼやけば、ルークが翡翠の双眸を瞬かせる。ガイは慌てて、いやなんでもないからな、と言い添えた。
それにしても、ルークの隙をついて屋敷を出てアイスを買いに行ったとしてもこの様子ではこの坊ちゃんの機嫌はよくならなそうだ。そんな判断をしたガイは胸中でため息を零した。
なにか打つ手はないかと思案しているガイの視界に映ったのはルークが飛び出してきた廊下を通過していく料理長の姿。
「あー……」
「ガイ?」
立ち上がったガイに、ルークが不思議そうに見上げてくる。
ガイは料理長が消えた先に視線を向けてから、ルークに戻し、
「アイス、作ってみるか」
「つくるっ」
あの融通の利く料理長なら大丈夫だろうと期待を抱いて、ガイは嬉々としてはしゃぎだした赤毛の手を取って厨房へ歩き出した。
訳を説明すると、予想通りすんなりと厨房を貸してくれた料理長と並び、ガイがアイスクリームを作るために必要な材料を揃えていく。
ボールに水と氷を入れた中へもうひとつボールを乗せて、そこへ生クリームを流し入れて泡だて器でガイが混ぜ始めると、それを見たルークがおれもやる!と騒ぎ出した。ガイが泡だて器を渡すとルークはがしゃがしゃ乱暴にかき回し始めた。
「ちょっ、ルークもうちょっと静かにやらないと…!」
ガイの注意も余所に生クリームがそこらじゅうに飛び散っていく。慌ててルークの手から泡だて器を取り返したガイは顔についたクリームをぞんざいに拭い、大きくため息を零す。控えていた料理長が苦笑した気配を背中で感じ取ったガイは、遊び道具を取られてむくれているルークに木ベラを渡すことで大人しくさせることを試みる。ガイから木ベラを貰って今度はそれを振り回しはじめたルークを見ながら、料理長がげんなりしているガイに声をかけた。
「私はクレーム・アングレーズを作るよ」
「あ、あぁ、よろしくお願いします」
「その生クリームは、冷蔵庫にしまっておいてくれ」
「はい」
頷いて、ガイはボールを冷蔵庫にしまった。相変わらずルークはひとりで木ベラを振り回して遊んでいる。木ベラのどこが面白いんだかと思いながらぼにんやりと赤毛を眺めていると、不意にみどりいろの双眸と視線が交わった。咄嗟に目を逸らすと、ルークはガイの傍によってきてぺちっと軽く音が鳴る程度にヘラでガイの頬を叩いてきた。
「ガイー?」
「…それはひとを叩く道具じゃないぞ」
「うん」
「なんですか、お坊ちゃん」
「ルーク!」
「……なんだ、ルーク」
「あいす、たのしみだなっ」
「そうだな…」
無邪気に笑ってそういってくるルークに、ガイは一度目を瞬き、ふっと柔らかな笑みを浮かべて赤毛をくしゃりと撫でた。
結局、アイス作りは料理長に任せきりの状態でガイとルークは椅子に座って完成を待っていた。
ルークは足をぷらぷらさせて楽しそうに笑っている。
そういえば、このこどもにとっては初めてのアイスなのか…、と今更ながらに気付いてガイは口端に苦笑を滲ませた。
真っ白になって帰ってきたこどもは、見るもの触るもの憶えたものに対して純粋な好奇心を見せる。
それが微笑ましくも感じ、同時に羨ましくも感じた。
今の自分には純粋に見て触れるものなど分かりきっているから。
愛おしくなっているのかもしれない。
このあたたかく柔らかな存在が。
それでも、いつかこのこどもの血によって己の手が赤く染まる日は来るのだろうか。
燻らせた復讐心。
消えて欲しい消えないで欲しい。せめぎあう相反した気持ち。
「ガイ?」
「ん、あぁ、どうした?」
「…ガイ。あいすできたって」
「どうぞ」
そっと名を呼ばれ、思考を打ち切ったガイの目の前に置かれた皿の上に乗った白いアイスクリーム。
ルークはガイの注意を引き戻すと、逆手で持ったスプーンでアイスを掬い、口に頬張って眼を丸くした。
「つめたっ、あまい!」
「アイスはそういうものなんだよ」
「お気に召していただけましたか?」
「うまー!」
ぱくぱくと夢中になって食べだしたルークに料理長とガイは顔を見合わせて笑う。
「ガイも食べるといい」
「有難う御座います」
用意されていたもう一つの皿を受け取ってガイもアイスを口に運び、うんと小さく頷いた。
「甘くて美味しい」
アイスの甘さと同時に心に残ったほろ苦い想いを、ガイは笑うことで誤魔化した。