からまる
頭のすぐ隣から聞こえる鼻歌が妙に苛立たしい。優しく私の髪を触る指を払いのけてみたいとふと思った。鏡の奥に映る姉の姿はどこまでも純粋そうで、綺麗だったから。
久しぶりに会議場で再会した私と姉さんはいつものように二人でお茶を飲んでいた。兄さんのいない会議で出会うときはどちらかの部屋でお茶をする、なんて決まりが私たちの間にはなぜか転がっていた。始まりは姉に泣きつかれたことだった気もするし、私の気まぐれだった気もする。とにかく、私たちは姉妹仲良くかどうかは分からないけれど一つのテーブルを挟んで適当な話をしていた。
「ねえ、ナターリヤちゃんの髪梳かせてもらえない?」
しかし、私が長い髪を耳にかけるのを見て姉さんは唐突にそう言ってきたのだ。テーブルに可愛らしく肘をついてそうお願いしてきた姉には、有無を言わせないような何かがあって、私はそれに「別にいいけど」と一息で返した。
「こんな風にするの何十年ぶりかしら」
そして今私はドレッサーの前に座って無表情に後ろに立っている姉を見ている。そんな彼女は私のリボンを解き、私の髪を梳き時々髪型を作っている。そんなことを繰り返すだけなのに姉さんはとても楽しそうだった。彼女の細くて綺麗な指が時々耳を掠める。
「ええ、まるで姉妹みたい」
「…いやね。本当に姉妹じゃない」
私の言葉で彼女の瞳にほんの一瞬冷めた色が見えた。しかしすぐにいつもの暖かな太陽のような温度が戻ってくる。きっと他の人ならば先ほどの冷たさは気のせいで済ませてしまうだろう。それほど普段の彼女とはギャップがあった。ましてや彼女を溺愛する兄さんなら、
「ナターリヤちゃんの髪は本当にきれいね」
鏡越しに瞳がぶつかった。兄さんの好きなひまわりのような笑顔だ。一方私は兄さんの嫌いな雪のような冷たい表情。それにどうしようもないくらいの苛立ちと悲しみが生まれて、胸の奥で静かに交ざりあった。笑顔の姉さんが私の髪をさらりと持ち上げたのを見て、私は幼いころをふと思い出した。
「姉さんはもう髪を伸ばさないの?」
「え?」
「姉さんの髪の方が綺麗だったじゃない。兄さんも大好きだった」
そう言うと自分の口角が上がっているのが鏡に映って見えた。そうか、私は今笑っている。私が思い浮かべていたのはとある過去の風景だった。
まだずっと幼くて、三人で小さくなって暮らしていたころ。姉さんがいつもは纏めている髪を解きそれを梳いていると、ふと兄さんが彼女の髪を見て柔らかく笑ったことがあった。そして一言「お姉ちゃんの髪はキレイだね」と。もうその頃には私の心の中には兄への恋慕の感情はしっかりと根付いて私の全てを支配していた。つまりその言葉は私が姉に対して嫉妬を燃やすには十分すぎたのだ。
正確に何と言ったのかなんて覚えてはいない。ただ姉にずるいと、姉さんばかりが兄さんに褒められると泣きそうになりながら怒鳴りつけたような気がする。その後の驚いたような姉さんの顔とよく通るごめんなさいという声だけはどうしても忘れられない。まるで脳にしっかりと焼き付けられたみたいに。
それからすぐに姉さんは綺麗な髪を切った。兄さんが残念がっていても、私はそれが心の底から嬉しくてなぜか愉快だった。
鏡の奥の現在の姉さんはじっと私を見ている。瞳からは冷たさすら感じない、まるで無感情。笑みを浮かべたまま振り向くと、固まったままの姉さんの手から銀の髪がすり抜けて肩に落ちた。鏡越しではなく直接瞳がぶつかると私の笑みはますます深くなった。
「ナターリヤちゃん」
そう姉さんの声が聞こえた。次に気が付くと私は姉さんの胸の中だった。優しい彼女の手が私の頭を撫でている。そして何度もナターリヤちゃんと私の仮初めの名前を呼んでいた。兄さんに撫でられると私は心が静まるように安心できる。だけど姉さんにそうされると私の胸はうるさく騒つく。それを聞くのが嫌いで、それに耐えようと私は思わず目の前の姉の服を握りしめていた。
「貴女が望むなら」
愛らしい声が静かな室内に響いた。姉の細い指が私の普段はナイフを握っている指を優しく包み込む。
何て愉快な姉妹だろう、私たちは。私が一番愛されたい人に最も愛されている女は、こんなにも私を愛している。しかもそれに気が付いているのは私だけだなんて。私たち三人の愛はこんな身近でひどく捻れている。
そう思うと私を愛し私に支配されている姉のことがとても愛しくなった。姉の手を振りほどいて立ち上がり、彼女の頬に手を触れると姉さんは瞳を丸くした。そして私は兄さんの愛するその唇にそっとキスをしたのだった。そこからは何の味もしない。