最低勝率
賭けをしてみようと思ったのは不動に八回目に殴られたときだった。勝率の限りなく低い賭けだとは分かっていたが。
「…飽きた」
俺の鼻血の付いている拳を一瞥して顔を歪めた不動はそれを俺のユニフォームで拭いた。俺はたらたらと流れていく鼻血を拭きたかったが、腕はまだ麻痺して動きそうにない。仕方なく俺は軽く鼻をすすった。
ロッカーを背もたれに床に座っている俺を不動は見下している。俺は睨むわけでも怒りをぶつける訳でもなくただそんな不動を見返していた。そしてしばらくすると不動は舌打ちをして視線を逸らせた。眉間のシワがさらに深くなっていることから彼は機嫌が悪くなったということに気が付いた。
「ムカつく」
「っぐ…!」
不動は俺の腕を容赦なく踏みつけてくる。一瞬、俺がGKをできなくなったらこいつはどうするのかと考えたが、ビーストファングもまともに使いこなせない俺なんて不動には必要ないのかもしれない。
俺はこの不動明王という人間が大嫌いだった。チームメイトでなければ絶対に俺はこいつに近づかないだろう。
しゃがんで俺と目線を合わせ今度は楽しそうに笑っている不動を見て俺は怒りだか悲しみだかよく分からないものが沸き上がるのを感じた。不愉快だ。しかし不動は俺がそういった感情を表に出すたびに愉快そうな顔をした。
「なあ源田ァ…どうだ?俺がムカつくか?それともサッカーができなくされるかもしれないのが怖いか?」
俺が今まで知らなかったような暗くドロドロとした感情をまとめて煮詰めたような、深い瞳をした目の前の少年。彼は俺に何を求めているのだろう。何も言わない俺にイラついたように右手を掴み不動はロッカーに叩きつけた。押しつけられる手首に激しい痛みが走っている。もし不動の気に入らない返答をしたらこのまま腕を折られるかもしれない。だが何がこいつの気に入る解答なのかも分からないし、機嫌取りの嘘をついてもすぐにばれるだろうと思った俺は正直に答えることにした。
「俺は、確かにお前が憎いし怖い…だがアイツを倒すためなら、いくらだってお前に壊されてやる」
そう答えると不動は少し目を丸くしたが、またすぐにそれを細めて笑った。腕にこめられた力は少し弱まったが、依然ロッカーに押しつけられたままだ。
「へえ…上等じゃん」
「ふ、ど」
「それでいいんだよ、俺はその怒りを思う存分利用してやるからなあ」
利用、と思わず繰り返して呟いた俺を見て不動は可笑しそうに声をあげて笑っている。手は拘束されたままでひどく痛かった。
俺の賭けは単純なものだ。もしもこの手が俺に優しく触れたら、俺は大嫌いな不動に笑い返してやる。そしてこの大嫌いな不動に跪いて全てを捧げてやろう。ただそれだけ。この不動の胸の奥のドロドロとしたものの中に溶け込めたらどんな気持ちになるのか、想像すると背中がぞくりとした。勝率なんて元々考えてもいない。おそらくこの手が俺を労る日なんて永遠にこないのだから。
「…大嫌いだ」
そう呟くと、不動は俺の耳元に「俺も大嫌いだよ」と囁いた。