ちかげ
じりじりと肌を焼かれるような強い日差しが
容赦無く降り注ぐ午後。
俺は本館から少し離れたところにある
プールへ向かう。
彼が来てから雨が降ろうと雷が鳴ろうと
してきた日課だ。
ぱしゃん。
水のはねる音がする。
今日はいつもより少し遅れたから
ご機嫌を損ねてるかもしれない。
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「青葉、悪いな少し遅れちまって」
聞こえるように大きな声で言う。
きっとぶすっとした顔で出てくるんだ。
ぱしゃん。
「……………」
水面から顔の半分だけ出して彼はきた。
やはり、ご機嫌を損ねてるようだ。
眉間には皺が寄ってしまっている。
「皺寄せるなって、せっかくの綺麗な顔が台無しだろ…っうわ、お前、いきなり水かけるなよ!」
少し頬が赤くなってるのを見ると、どうやら照れ隠しみたいだけど
どうにも、俺の人魚さんは扱いが難しい。
「ほら、青葉、今日のおやつ」
青葉の大好物の、鯛の刺身。
丁寧に切ってたら案外時間が掛かってしまって遅れたのだ。
ぱしゃん。
嬉しそうに目を細め、尾の方で優しく水を叩くのは
ありがとう、っていう意味。
口はある、歯もある舌もある唇もあるけど
青葉は喋らない。
喋れない、のかもしれないけれど
俺にはわからない。
言葉を知らないだけかもしれないし。
「声が出ないって、人魚姫みたいだな」
紅い舌でちろりと唇を舐めてる青葉は、
どうやら俺が頑張って下ろした鯛をもう食い終わってしまったようだ。
「…もし青葉が人魚姫なら、誰に恋して声を失ったんだ…?」
ビー玉みたいな大きな瞳で、
真っ直ぐに俺を見てくる青葉が
何だか本当に童話に出てくる人魚姫に見えてきた。
そういえば、王子に恋した人魚姫は最期どうなったんだっけ。
泡になって消えてしまっただっけか。
「青葉は…泡になってくれるなよ…」
ちゃぽん。
首を傾げる青葉は、意味が分かってないようだ。
それでいい。
俺は人魚姫の一途な思いも好きだけれど、
やはり幸せになるお話がすきだ。
あぁ、何だかぼーっとしてきた。
やばいな、暑さにやられたか。
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ちかげ
ちかげ
ちかげ
しなないで ちかげ
ちかげ
ちかげ
だいすきだよ ちかげ
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名前を、呼ばれた気がした。
聞いたことのない声だけれど、知っている声だ。
透き通る声だ、俺の、人魚の声だ。
それと、柔らかい何かが唇に触れた。
ゆっくりと目を覚ますと、
そこは青葉がいるプールのプールサイドだった。
「あれ…俺、何でこんな濡れて…?」
気が付くと、服も髪もびしょ濡れだ。
青葉が水をかけたのか?
「あー、六条くんいた」
「あ、…ごめん、もう掃除の時間?」
「ううん、そうじゃなくて。館長が呼んでたよ、どうしたの?びしょ濡れじゃない」
「ちょっとぼー、としちゃってたみたい急いで着替えていくわ」
ちかげ
ちかげ
随分と近くで聞いた気がした。
随分と、優しく呼ばれた気がした。
でも、そんなことがある訳ないのだ。
青葉は、水から出てこない。
声を出さない、喋らない。
以前、俺の名前を教えてあげたことはある。
けれど、呼んだことは無かった。
口をパクパクとし、声にならない息を吐き出してはいたけれど。
ちかげ
唇に触れたあれは何だったんだろう。
まぁ、考えていても仕方ない。
館長の用件を済まして、青葉に会いにいこう。
さっきは、別の飼育員がきたから
多分出て来づらかったんだろう。
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コンコン
「六条です」
「入りたまえ」
館長の部屋は、いつ入っても緊張する。
ちょっとしたことでクビにするような人ではないけれど
どうしても粗相のないよう、と考えると
いつもカチンコチンに固まってしまう。
「あの、呼ばれてると聞いたのですが」
「あぁ、あの魚のことでね」
ちかげ
「六条くんは随分可愛がってたみたいだから言っておこうと思って」
ちかげ
「あの魚ね――――」
ちかげ
聞いたことのない声だけれど、知っている声だった。
透き通る声だ、俺の、人魚の声だ。
ちかげ
優しく、優しく名前を呼ばれる。
ちかげ だいすき
俺の日課がバラバラと音を立てて崩れ落ちていった。
頭に響く聞いたことの無い青葉の声が
ただ優しく、残酷に響く。
ちかげ
「あの魚ね、お偉いさんに引き取られることになったよ」
ちかげ だいすき