永遠
空は見事な五月晴れで、雲ひとつ無かった。
外ではしゃいでいる近所の子供の声は、二階のこの部屋まで届いていたけれど、少しも騒々しいとは思わなかった。
いつもなら思わず眉間に皺を寄せて、何も言わずに窓を閉めていただろうけれど、今はそんな気持ちにはならなかった。
窓を閉めなくても、耳を塞いでしまわなくても。
そんな音は、厚いフィルターをかけたように、遠くに聞こえる。
胡坐をかいたまま、少しだけ首を捻って窓の外に顔を向けた。
極彩色の魚の群れが泳ぐ青い海を、少しだけ目を細めて仰ぎ、俺はまたすぐに視線を目の前の碁盤に戻した。
すっと手を伸ばすと、ひんやりとした感触が伝わってきた。
真っ直ぐな線に縁取られた碁盤の目をゆっくりと指で辿りながら、ひどく感傷的な気分になっている自分に、思わず自嘲気味に口許を歪めた。
あの日、あの時と同じようなその風が、俺の頬を撫でていく。
透き通った青い空の色も、泣きたくなるほど、あの時と同じだった。
ぱちり、ぱちり、と俺が碁石を打つ音だけが、俺しかいないこの部屋で、不自然なほどくっきりと浮かんでいた。
白と黒で順々に埋められていく碁盤は、けれど最後まで辿り着く事はない。
いつの間にか消えていたその姿と一緒に、行き先を失くして、途切れてしまったまま。
俺の口からは、気付くと溜め息の様な笑みがこぼれていた。
「お前といられて、楽しかったんだぜ」
どんなに鬱陶しいと怒鳴ったって、忌々しいと思ったって、離れたいなんて、一度だって思った事は無かったんだ。
誰よりも側にいた。
その時が終るだなんて、認められるはずなかった。
何もかもがどうでもよくなってしまうほど、あの時の俺はただ、お前に会いたかった。
会いたかった。
本当に、ただそれだけを願った。
最後の石をことりと置くと、静かに息を吐き出した。
お前は、あの時どこに打つつもりだったんだろう、なんて思いながらその並びを真剣に見つめる。
様々に思いを巡らせて数十分腕を組んでいたが、やがて再び石を指に挟んだ。
響く音が、耳ではなく、深く胸をつく。
こんな痛みを、あの頃の俺は知らなかった。
お前の声が届いたのは、ただの偶然ではなかったのだと、信じている。
俺にとってのお前は、必然だった。
お前にとっての俺も、きっとそうだった。
「俺がお前に生かされたみたいに、俺もお前を生かしてやれたかな」
見えない姿に、呟くようにして話しかける。
その声は自分でも驚くほど穏やかで、口許には自然と笑みが浮かんでいた。
返ってくる答えはない。けれど、それを寂しいとは思わなかった。
何故だろう。消えない痛みは今もあるのに、それを苦しいとは感じない。
俺とお前が打ったこの碁盤の上で、お前は確かに生きていた。
例え他の誰にも姿が見えず、声が聞こえなかったのだとしても。
その手に、触れる事さえ出来なかったのだとしても。
碁盤の上に存在していた、あの時間だけは永遠なんだ。
お前が消えて、置いていった数え切れないほどの記憶も、俺が年を食ってよぼよぼのじいさんになれば消えてしまう。
俺だってそのうち死んで、消えてなくなってしまうのだろう。
けど、それでも消えないものが、この上にはある。
千年の時を経て、お前が俺の中に何かを残していったように、俺もいつか誰かの礎となる。
そうして絶え間なく、果てしなく続くものを、この石が繋いでいくんだろう?
「時々・・・・・、お前の声が聞きたくなるんだ」
そこにあったはずの笑顔は、今はない。
甘えたように強請りながら、時には厳しく鋭い眼差しと共に、お前は何度も俺の名前を呼んだ。
いくらだって思い出せる。
でも一番欲しいのは、満面の優しい笑みを浮かべているお前の顔と、本当に嬉しそうに俺を呼ぶお前の声。
もう一度だけでいい。
そう思っているのに、お前はあれ以来、夢にさえ出て来てくれない。
今日くらい、この時だけは、望んでみてもいいだろう?
今だけは、立ち止まってみてもいいだろう?
またすぐに、俺は歩き出すから。
どこまでもずっと歩き続けて、この盤の上でお前と生きていくから。
「・・・・・気が遠くなりそうだな」
小さく息を吐いて、俺は苦笑を浮かべた。
遠い道程に思いを馳せて目を閉じれば、意識は静かな風景の中に溶け込んでいくような錯覚に陥った。
どこなのかも分からない。それは遠い、遠い、遥かな場所。
風が吹く、白い地平線の彼方へと、歩き続けていく。
いつまでも終らない空と、どこまでも広がり続ける大地の狭間の、その向こうへと。
それが永遠だと言うのなら。
決して途絶えることなく、俺たちは歩き続けていく。
階段の下から、俺を呼ぶ声が聞こえた。
ハッと目を開けばそこは俺の部屋で、目の前には、あの時からほんの少しだけ前に進めた対局が、静かに碁盤の上にあった。
進めた、だろうか。いつか、終わる日がくるのだろうか。
「ヒカルーっ!早く降りてきなさい、待たせてるんだから!」
母さんが声を張り上げているその横で、慌ててそれを止める声も聞こえて、思わず吹き出した。
あぁそうだった。約束が、あったんだった。
そう思い出すと、さっきまでの感傷的な空気は瞬く間にかき消えていった。
立ち上がると、俺は碁盤をそのままに、部屋を出てわざと階段をのんびりと降りていった。
残された無人の四角い部屋の中には、扉の閉まる音だけが響いた。
その瞬間、ふわりと白いカーテンが風に膨らみ、新緑の光が満たされた。
盤の上にたたずむ石たちは、それを受けて凪いだ水面のように輝く。
静かな潮騒にも似たその囁きは、この小さな部屋の中で、誰にも聞かれること無く、温かな空気の中に溶けていった。