カラオケ
背後では大音量が流れているので、室町のその声も半分怒鳴るような調子だった。
だが、誰もそんなことは気にした様子もなく、こぞって手をあげて希望の飲み物を叫び返した。
南もソフトドリンクのメニューを広げて少し悩んでから、オレンジジュースを頼んだ。
「メニュー、見るか?」
「うん」
隣に座っていた千石にメニューを渡すと、南は立ち上がって千石の膝を跨いで出口へ向かった。
体を引いて通り道を空けてやりながら、千石が訊ねてくる。
「どこ行くの?」
「便所」
「いない隙に変な曲入れちゃおうかな」
「誰が歌うか」
すれ違いざまに拳骨を作って軽く頭を叩いてやった。いたい!と文句を言うのが聞こえたけれど、あんなもの、痛いうちに入らないことは承知している。千石は何かにつけて大袈裟だから困る。
この程度の遣り取りは、数えるのも馬鹿馬鹿しいほど日常茶飯事だった。
薄暗くて狭い個室を出て誰もいない廊下に立つと、少し息が楽になったような気がした。
今日のように、テスト打ち上げだとか適当な理由をつけてカラオケに来るのも、もう何度目かになる。
初めの頃こそ慣れなかったけれど、今は普通に歌だって歌うし、素直に楽しめるようになった。
それでもやはり、あの狭い個室の空間には、体の方でどこか馴染めないらしい。
――――つーか、あいつら、よくあんな歌える歌があるな。
普段から音楽を聴く習慣があまりないので、レパートリーもそれほど広くない南だ。
相方の東方だって自分と大して変わりないだろうと思っていたら、これが意外と最近の歌をさらりと歌ってしまう。
妹が好きだからよく借りるんだ、なんて言って笑っていたが、南は地味にショックを受けたものだ。
しかし、レパートリーの広さと言ったら、何と言っても千石の右に出る者はいない。
ドラマや映画の主題歌だとか、何かのCMソングだとか、少し話題になったような曲なら大抵はさらっと歌えるし、腹立たしいことに、かなり上手い。
しかも、あの通りの盛り上げ上手ときてるから、女子の中で人気があるのも必然なのだろう。
――――あれの、どこがそんなにいいんだか…。
あの男の本性をよく知っている南としては、そこまで素直に誉めそやす気にはなれない。
けれど、ほんの少しだけ、ほんの気の迷い程度は、聞きほれた事実を認めないではない。
要するに負け惜しみなのだ。自覚して、南はうんざりしながら、溜め息を吐いた。
通りすがる部屋のドアからは、空気を震わせるように音がもれている。
歌っているのか叫んでいるのかわからないような声の聞こえるドアの前では、思わず苦笑いがこみ上げた。
南はトイレにたどり着くと、さっさと用を足し、洗面台に向かってざぶざぶと手を洗った。
きゅっと蛇口を捻って手の水を切り、ふっと顔を上げて鏡を見上げると、丁度背後の扉から人が入ってくる様子が映った。
狭いトイレなので、通りやすいようにと少し避けた南は、鏡の中でこちらを見て微笑んだ顔に、思わずぎょっとなって振り返った。
「千石!」
「何をそんな驚いてんの」
「え?…あ、いや、別に驚いてなんかねぇけど」
しどろもどろに否定する南に、千石は愉快そうに近づいてきて、すぐ下から覗き込むように南を見上げた。
近すぎる距離に視線を外すことも逃げることもできず、南は一層しどろもどろになった。
「……っ、近い!」
「俺はいつだって南に近づこうと必死だけどね」
「便所で頭沸いたこと言ってんじゃねぇよ!いいからどけ!」
「冷たいなぁ、さっき俺の歌聴いて惚れ直してたくせに」
「だ……ッ!!」
誰がだ!と怒鳴り返そうとしたけれど、できなかった。
目の前で、にんまりと千石が微笑んだのだ。まるで、全部お見通しだ、とでも言うような余裕綽々の笑みで、不覚にも、ほんのわずかばかり身に覚えのあった南は、言葉に詰まってしまったのだった。
千石の目が、きらりとひらめく。調子付かせてしまったことはわかったけれど、後の祭りだ。
「ねぇ、南」
こんな強請るような声は千石らしくない。
向こうもそれはよくわかっていて、でも、南が心底嫌そうな顔をするので、好んで使う。
頭の悪そうな、バカみたいに甘ったるい声音。
それなのに、名前を呼ばれる自分は、いつだって簡単に追い詰められる。
「ここでキスして」
そんなことして、一体どんな顔してみんなの待つ部屋に戻れって言うんだお前は、と南は心の中で唸る。
いっそ、どこか二人で抜け出そうか、とでも唆してくれた方がマシかもしれないと思いながら、南は乱暴に千石の学ランの襟を掴んで引き寄せた。