失せもの
しかして何も変わりはしない
──失せもの──
もしかしたら僕は、もう死んでいるのかもしれない。
体中が血まみれで、それはもちろん自分の血だけではないのだが、不快極まりない。腹に手を当てるとまだ温かい血が溢れているのがわかる。
いい加減なにも考えられなくなる頃、血とは違う温かさを感じた。
──これは、この風は
左の棍を持つ手に再び力が入る。血がとまり、傷口までもがふさがっていく妙な感覚に吐き気を覚えた。
まだ動く。また動く。
腹にやっていた手を目の前まで持ち上げ開いたり閉じたりしてみると、そのたびににちゃ、にちゃと嫌な音が耳につく。
「なに死にかけてるの」
「わざとじゃ、ないよ」
何度思ったことか。
「まだ死ぬわけにはいかないし」
もう自分は死んだのではないかと。
「マッシュが心配してた。今回はヘタしたらキミも死ぬんじゃないかって」
だから探しついでに助けにきたと、先刻癒しの魔法を行使した翠の法衣の少年はつづけた。
「まだ君には死なれちゃ困るんだよ。仮にもリーダーなんだから」
「だけど最初のリーダーは死んだ。だから僕はリーダーになった。僕が死んでもまた新しい人がリーダーになるだろう」
「残念ながらそれはありえない。可能性はゼロだ。前リーダーが死んだのは君が現れたからだ」
「もし僕がずっと帝国にいたら──」
帝国。
小さな頃からずっと見てきた父の背中は大きくて立派で堂々としていて。
あこがれだった。
いずれ自分も父と同じように帝国に尽くすのだとも思っていた。だけどどこかで運命は曲がった。
…いや、寧ろ「今」が正しい運命なのかもしれない。帝国に一生を捧げるのではなく、この解放軍のリーダーとして。それが自分の。
帝国が、皇帝が腐敗してきたのはいつからだったか。皇帝の膝元の街で今まで生きてきたというのにそのことはわからない。皇帝の膝元の街で、生きてきたからなのか。
たくさんの人間が、帝国によって死んでいった。それは親友であったり家族同然の存在であったり、自分を本当の(実際そうなのかは確かめようもないが)運命の道へと引っ張ってくれた人であったり、解放軍に尽力してくれた名も知らぬ兵士であったり。
自らもたくさんの人間を殺した。それは帝国の兵士であったり、実の父親であったり。
あこがれ、だった。
父の運命をそのままたどると思っていたのに。
あろうことか自分はその父を殺した。
あの時はそうせざるを得なかったと何度言い聞かせても罪悪感は消えない。
僕は、ずっと、帝国にいるはずだった。
「それでもなにも変わりはしない」
不意に響くルックの声に。
はっとした。
それは坩堝にはまりそうだった己の思考を救いあげる。
──たしかに。
運命とはそういうものだと、自分では思いもしないものなのだと言われた気が、した。
だから変わったように見える人も、変わってなどいない。ただその人の人生というのが運命に準ずるものになっただけなのだ。
人は変わらない。簡単には変われない。変わったように見えるならそれは。
…結局僕は死ぬことなく、解放戦争を終えて統一戦争ですら生き延びた。
その後の僕はふらふらと、それこそどこにでも行った。シオは何故だかいつも僕のななめ後ろを金魚の糞みたいについてきていたけど
「僕のことは空気みたいなものだと思って、気にしないで」
と言われたので本当に気にしないでおいた。
あれから、統一戦争が終わってから何年経っただろうか。正確に数えていないからあやふやだけど、十年くらいは経ったはずの頃。
唐突に懐かしい気配、風。
たぶんグラスランドの草原で、タイミングを見計らったのかななめ後ろの気配が一旦僕のそばから離れたとき、前触れもなにもなくルックは僕の前に現れた。
なにも変わらない、だけど少し容姿が前と違う。
「──僕は君に、なにもかも変わることはないと言ったね」
ルックの声に合わせて、微量の風が動くのがわかった。風のせいでか声が少しばかり震えているように感じた。
「…………変わらないよなにも。この世で移ろうのは風と、季節だけだ」
自嘲気味に歪んだ顔とは裏腹に目はちっとも笑っていない。
この何年かの間で変わってしまった。すべて。だってもう思い出せないんだ。
「風が移ろうのならば僕も同じだ。僕も、」
肩まであった髪は短くなっていて、服ももうあのときのような法衣ではない。あのときのルックとはどこも相似していないのにそれでも変わらない声。
あぁだけど。
「風だから」
出てきたときと同じ、唐突にかき消えるルックの気配はたどれるはずもなく、気付くと僕はただ一人で草原に突っ立っているという情けない状況に陥っていた。いつからいたのか、背後には控え目な気配。だけど彼は酸素だから気にしない。
「ルック……」
言うことは変わった。変わらない声で今までとまったく違うことを言うんだ。
どうしようもない感傷であることはわかりきっているが、「本当」に変わることのできない僕は、誰か見知った人が変わるのを見ると哀しくなる。
君はあの時まであんなに必死だったのに、それはもうどうでもいいの?
移ろう風のように、君だけはどうか変わっていかないで。
されど耳を打つ君の声は変わってしまった。