モノクロ。
別に知らなかったわけではない。すべてはうつろうものだと、ずっと前から知っていた。知っていたのに。
──モノクロ。──
──ふと顔を上げると見知った顔。だけど相手は自分を初対面の人間を見る目で見ている。
哀しい。
「どないしたんや、……えーと…………」
「植木耕助」
「…植木か。変わった名前やな」
「そうか?」
北風は冷たいが天気がいいからと、ウールには急かされたのだが約束の公園まで歩いて何気なく辺りを見回したら少し離れたところに彼がいた。思わず名を呼んでしまって、しまったと思った時にはもう遅かった。彼は耳聡く聞きとめた言葉に反応して俺の顔を見る。その顔にあったのは逡巡の色。あれは誰だと考えているのかと思ったらどうしようもなく哀しくなって彼の顔を見ていられなくなり目を地面に向けた。一瞬の逡巡を終えた彼は近付いてきて、地面に向いた視界に彼の靴が入った。かけられた声は自分の記憶にあるものと寸分違わずそれが一層虚しさを煽る。
「ところで……どちらさんやったっけ? どうにも記憶力が悪いらしくてな……」
やっぱりと肩を落とすこともなくため息も吐けず、ただそう思った。同時に彼の名を口にしてしまった自分の愚かさに心の中だけで悪態を吐きながら不自然にならないようありきたりな答えを返す。
「いや、こっちこそ悪い。知り合いに似てたもんだからつい」
「へぇ、俺に似た知り合い? …名前も同じなんか? 珍しいな」
「そうだな。俺もびっくりした」
本当に本当に。
偶然見かけた彼は案の定自分を忘れていて、知り合いだと思っていた彼が知り合いではなくなっていたのだと気付く。
──そっくりだよ、お前は、俺の知ってるアイツと。
びゅう、と音を立てて吹く北風に手ぬぐいの端が泳ぐ。彼はそれを片手で押さえながら
「俺に似た奴か……そいつは、名前何て言うんや? あ、俺は佐野清一郎っちゅうんやけど」
「────……ぁ…」
思わぬ問い掛けに、返答に詰まる。彼はアイツにそっくりで、ただ違うところは彼のように他人を見る目で自分を見ない事だけ。
仲間だったのに。仲間だったのにそんなことお構いなしに記憶は持っていかれた。アイツは確かに俺の仲間だったのに彼はそのことを覚えていないから。
そうやって悪気も邪気もなく問える。
「……なぁ、俺、もしかして悪いこと聞いたか?」
なかなか答えないでいる俺に何を思ったか彼は申し訳なさそうな声音で恐る恐るといったふうに俺の顔を覗き込む。
俺は彼にまで心配をかけさせて何をやっているんだ。
「──そういえば下の名前を聞いてなかったと思ってな」
少し困った様子を装えば彼は簡単に騙される。騙されてそして脱力する彼を見る自分はなぜ未だここにとどまるのだろう。
適当に彼をあしらってさっさとここから去ればいいのに、これは偶然だから、もう会えないかもしれない彼の声をまだ聞きたいから
「…それは……抜けとるっつうか言わんほうも言わんほうやっつうか……」
「そうかな」
未だとどまり続けるんだ。
「そうやと思うぞ」
苦笑して彼は目を瞑る。しばし何事かを考え唸っていた彼は目を開けると改めて俺の顔をまじまじと見つめた。
「どうしたんだ?」
そして発された言葉は、俺の思考を凍らせるには十分すぎるものだった。
「俺────アンタとどっかで会うてる?」
瞬間頭に浮かんだのはあまりにも都合の良い考え。それこそ記憶なんてあやふやなものなのだからとすぐに笑って捨てられる程都合が良い、それは希望にも似た。
「どっかって?」
「…うーん……………………………………………………………………、悪い、分からんわ」
ああ、こんなときばかり希望を裏切らなくて良いのに。神には最初から祈る気なんてないし祈ったところでどうにかしてくれる存在ではないと知っているから神には祈りも怒りもせず、晴れすぎた空を少し睨んだ。
「俺、そろそろ行くよ」
本当はまだ彼といたいのだが自分はこれからやらなければならないことがある。いつまでも立ち止まってはいられないと踵を返した。
だが彼の声に呼ばれ背を向けたまま応じる。
「行く前に一つだけ教えてほしいんやけど、この公園、誰かおらへんかったか?」
──約束したのに。
「…なんで?」
小さな紙に走り書きされたメモはまだ持っている。今は手の中で更に小さくなって約束が果たされるのを待っていた。
密やかな、ささやかな、ほんの一言だけど。
だけどそれはとても大切で忘れたくないものだから、あの時の大切な仲間にも、忘れてほしくなんかなかったから。
これほどまでに願ってるのに。
「おらへんかったならええんやけど…ここで、何か約束しとったはずなんや」
憎らしいほどに晴れ渡った空、吐き出された言葉、すべてこの冬の風に融けてしまえ。そして目を閉じて、次に開けたときそこはいつもの自分の部屋だと、夢であったならばどれ程いいか。
僅かな希望と少しの期待と幾許かの絶望で、ゆっくりまぶたを下ろす。
「……だれも……いなかった」
開かれた目に映るのは今までと変わらぬ風景。この体に感じるのは、強さを増したただの北風。
言葉を確かめるような答え方に彼が何か言う前に、俺は駆け出した。
そう、約束。大切な皆と交わしたソレはもう無用の長物と化して塵になった。だというのに自分の中にはまだ残っている。恐らく消えはしないだろう。まったく忌ま忌ましい。
未だ公園付近で惚けているだろう彼にとって、もはや「約束」はただの約束に成り果てているのだろう。うらやましいと思いながらも頭の片隅では仕方がないんだと割り切っている自分がいることに泣きたくなったが、俺は公園からあの時までは俺の知っているアイツだった彼から一刻も早く離れるように走った。
きっと、認めるのが嫌だった。