霧の街
かすむ視界はあいまいで、不透明。
一寸先ですら見えない。
わからない。
自分が生きているのか死んでいるのかさえ。
ふらつく足に力をこめても、たいした反動はない。
ただゆらゆらとゆらめくだけだった。
本当に自分がこの世の人間であるかも実にあいまいだ。
このままジャンプすれば背中に翼が生えて飛べるのではないのかと。
わけのわからぬ自信に見舞われて、今にも挑戦したくなる。
後先考えずに実行しようとしたとたん、眼前のもやに黒々とした影が映って、意識をわずかに現実へと引き戻した。
誰何する前に影が動いたかと思えば、一足飛びに肉薄してくる。
一瞬にして眼前まで迫った人物の顔は、しかし覆面でわからなかった。
何事かと思う前に、身体の隅々にまで染み込んだ本能がかろうじて反応する。
片足だけを少し後ろに引いて、そちらに体重を移した瞬間、目の前を光るものが薙いでゆく。
もやの隙間から差し込むわずかな陽光から鑑みると、どうやら光り物のようらしい。
要はナイフか何かだ。
それはいたってありふれたものであり、決して特殊なものには見えなかった。
この、襲ってきた相手が誰だかわかるような証拠ではないのだ。確実に。
それがハンデであることに間違いはなかったが、今さら嘆くのも遅すぎる。
いつものように淡々と応じかけて、ふとためらった。
いや意識的な話ではない。
気持ち的にはやる気であったのだが、身体がついてこなかったのだ。
それを証拠に力の入らぬ足はたわみ、今にも崩れ折れそうに萎えている。
気を抜けば、一瞬で倒れこみかねない。
そんな不安定な身体をどうにか操って、迫り来る影を待ち受ける。
突き出されたナイフを避けるでもなく、じっと出迎えて身動きひとつしない。
そんな命知らずの対応に驚いたのか、影がわずかに動揺する気配を感じ取る。
その隙を逃さず、拳を振り上げ、覆面のあごをとらえた。
小気味のいい音がしてよろめく身体にもう一発。
今度は的の広い腹部に向かってボディブローの一撃を放った。
ふらついてはいても見事にそれは決まり、覆面の男が沈む。
声もなく崩れ落ちるさまに我知らず背筋の寒い思いをしながら、それを見つめていた。
今にも地面に男が倒れ伏しそうになったまさにそのとき。
横合いから飛び出してきた銀の光に本能的に目が行く。
しかし、それ以上の動きはできそうになかった。
身体はすでに限界まで重く、ろくに腕も動かない。
せめて腕さえ動けば振り払うこともできたものを。
内心でぼんやりそんなことを考えながら、目前まで迫った第二刃を見続ける。
自分でも反射神経がいいと思える両の目は、その軌跡まで鮮やかに再現して飽きさせない。
我がことながら、なかなかおもしろい見世物だった。
今にもその切っ先が自らの胸に沈むかと思われた瞬間。
またしても現れた影が、今度はなんとナイフをたたき落としていた。
何が起こったのか警戒する前に、その相手は第二の覆面男をあっという間にのして息ひとつも乱していないから驚きだ。
止まった脳が覚醒しきるより先、大きな声がその空白をたたき割っていた。
乱暴に腕をつかまれたかと思えば、耳元に吹きつけられるのは、いらだったような大声。
「どこに行ったかと思えば、こんなところで油を売っているとは……! おい、薬で頭が麻痺してるんじゃないだろうな!? 俺の話は聞こえているかアーサー!!!」
滑舌のよい重厚な低音が、息継ぐ間もなくぶつけられて耳が痛い。
薄ぼんやりとしていた思考の膜が引き裂かれるようにして破られる。
どっと押し寄せてくる現実の生々しさに吐き気さえ覚えるほどだ。
くらくらする視界に引きずられないよう、強くこめかみを押さえながら、アーサーはようやくうめきにも似た声を出した。
「……聞こえている。そんなに大声で怒鳴るなよルートヴィヒ……頭が使い物にならなくなるだろう」
大事な大事な商売道具なのだから、せめてもうちょっと音量を抑えてほしい。
言外にそう伝えたアーサーだったが、目の前の男はすっぱりと無視した。
それどころか鬼のような形相でにらみつけてくる始末である。
薄い金髪に目の覚めるような薄青い瞳をしたひどく体格のいい男だ。
こんな朝も明けやらぬ時間帯から、きちんとスーツを着込んでいるからあっぱれとしか言いようがない。
ルートヴィヒと呼ばれたその男は、アーサーに向かって遠慮容赦もなく言い放った。
「もうとっくに使い物にならなくなっていると思うが。知っているかもしれないが、足はふらふらだぞ。瞳孔にも光がない。完全に中毒症状だ。あれほど使いすぎるなと言っておいただろう……!?」
まだまだ続きそうな小言をどうにかさえぎって、アーサーは頭を抱える。
声が頭の中で反響してどうにかなりそうだった。
「ああ、ああ……わかってる……わかってるから、勘弁してくれ……頭
が割れそうだ……」
うめくようにして言って、脂汗をにじませるアーサーをこれ以上問いつめても効果はないと悟ったらしい。
ルートヴィヒはひとつため息を吐くと、ふらふらのアーサーに肩を貸して立ち上がらせた。
「それでこの連中はいったい何なんだ……いない!? どこに行ったんだ……」
先ほどアーサーを襲っていた連中。
その相手に心当たりはあるのかと問いかけた言葉は途中で空に消える。
アーサーとルートヴィヒが二人がかりでのした男たちは、いつの間にか影も形もなかった。
そこに確かにいたという痕跡すらない。
せめて得物ぐらいは残っているかとも期待したが、入念に持ち去られたらしかった。
あからさまにがっかりとした顔をするルートヴィヒとは正反対に、アーサーは笑みを浮かべる。
口の端までをも皮肉に染め上げると、突き放すように肩をすくめてみせた。
「どうせ、どこかに仲間がいたんだろうさ……狙われる覚えは山とあるからな」
「ならば、これからはせいぜい身を慎むんだな。これではもたないぞ」
たしなめるような口調になおさら笑みが深くなる。
一瞬ふとまなじりをゆるめたかと思えば、アーサーはめずらしく毒も皮肉もない声音で言った。
「それは大丈夫だ。なんせ俺には優秀な助手がいるからな。なあ、相棒殿?」
意味ありげに見上げる先には、苦虫を噛み潰したかのようなルートヴィヒの顔。
一瞬でも動揺を見せてしまった自分がくやしいのか、わずかにそっぽを向きながら早口で言う。
「……ったく、いざとなったら人を当てにするのはやめてくれ」
その言葉にまたかすかにまなじりを下げつつ。
アーサーはどこかやわらかな顔で続けた。
「それは仕方がない。我が助手殿は優秀極まりないからな」
「……もういいわかった……っ。とりあえず家に帰るぞ……! 菊が心配して待っているからな」
体格差があるせいだろう。
引きずられるように引っ立てられながら、それでもアーサーはやわらかな表情を崩さなかった。
「……ああ。帰ろうか、家へ――」
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序でも読みたいと言ってくださったAさんに捧げます。