揺れる捨て子花
「おい、じじい。まーだくたばってなかったのかよ」
夏休みも終わりがけのある日の日曜、偶然迷い込んだ道で偶然見つけた廃屋。そこに俺はもう一週間ほど通っている。
廃屋だと思ったそこは実は廃屋ではなくて、一人のじじいが暮らしていた。じじいと言っても見た目は十代後半から二十代程度で、どちらかといえば俺の方が年上に見えるかもしれないのだが。
それでもそいつの喋り方や仕草がなんともなしに爺むさくてじじいにしか見えない。おまけに、最初にここに潜り込んだ日、そいつはあろうことか着物を着て盆栽を前に湯飲みで茶を啜っていた。それがどうにもじじいにしか見えなくて、それ以来俺はそいつのことを「じじい」と呼んでいる。他にも理由はあるのだが、多分それが一番でかい。
「おやおや、またそんなところから。入るなら、堂々と玄関からいらっしゃいな」
「うっせえじじい。どっから入ろうと俺の自由じゃねぇか」
「でしたらせめて裏口から。毎日毎日――どうして、そんな生垣の隙間から」
「ここが俺にとっての玄関だ」
後から気付いたのだが、どうやらこのじじい、普段着は着物で、毎日縁側で茶をしばいているようだ。この一週間、俺が生垣の穴からこの家に侵入する度に見る光景は毎日変わらない。今日もいつもの位置に座り、のんびりと茶を飲んでいた。
「いらっしゃい。今日も爺の話に付き合ってくれるんですか?」
諦めたのか納得したのか、じじいは茶を脇に置くと体ごと俺に向き直った。
自分で呼び名にしておいてなんだが、最初はこいつが自分のことを「爺」と言うのにかなりの違和感を感じた。どう見ても俺の親父より見た目は若いくせに、なぜ爺なんだ、と。
次第に慣れたのもあるが、今はもうこいつはじじい以外の何者でもない。その件に関しては、早々に俺の方が諦めた。
「言っとくが、昨日みたいな怖い話しは無しだからな!」
「あらあら。最近の子は軟弱ですねえ。あんな作り話くらいで」
「その作り話のクオリティが高すぎんだよ! 今日は怖い話以外で、だ」
「分かりましたよ。では今日は、食べられる野草とそうでない野草の見分け方のお話でもしましょうか」
「何でそんなサバイバル志向なんだよ」
そういえばこのじじい、初めて会った日に俺はちゃんと自己紹介をしたのに、一度も名前を呼びやがらない。名前を呼ばないのはお互い様だが、じじいは自己紹介すらしていない。じじい呼ばわりしてくる奴に教える名前なんかないってか?
「ところで、いい加減名前教えろよ。いつまでもじじいじゃあ呼びにくいったらありゃしねえ」
じじいはじじいらしかぬ笑い声で以って、それを拒否した。
「ふふ、遠慮します」
「じゃあいつまで経ってもじじいだぞ!」
「構いませんよ。どうぞじじいとお呼びなさいな」
そんな風に開き直られてもな。
それでも、ここ一週間毎日続いている問答なだけに、お互いもうただの社交辞令みたいになっている。挨拶みたいなもんだな。
そう考えたら、じじいとこの短期間でこんな社交辞令まで交わせるようになるほど気心しれた存在になろうとは、一週間前の俺は毛ほども思わなかっただろう。ある意味、貴重な縁になるわけだ。……相手がこのじじいじゃなければ。
俺が悶々と考えていると、じじいが口元に手をやった。着物なので口元は完全に隠される。
「そろそろ、夏休みも終わりですか」
「あ? ……嫌なこと言うなよ。学生にとって休みってのは貴重なんだ」
「そんな貴重な休みを、何も毎日私に会いに来て潰すことはないでしょう」
じじいが何を考えているか、まったく分からない。ただでさえ感情が表情に出ないのに、口元まで隠されたら何も推し量れない。
「……別に、潰してるわけじゃねえよ。まあ、アレだな。寂しい独居老人の話し相手になってやろうっていう、これはボランティアだ」
胸を張って言い切ってやると、じじいは呆けたように俺から目を離さなくなった。……やべぇ、さすがに気まずいぞ。
「どうしたじじい。遂に耄碌したか?」
あまりの気まずさに、もしかしたら更に気まずくなるかもしれないことを口走ってしまい内心焦る。いや、普段の俺なら平気で言うようなことでも、今は少し、一応場の空気を読んでみてだな。もっとも空気は読むものじゃなくて感じるものだと思うんだが。
「……そうですか、ボランティア……ふふふ、面白いことを言いますね、貴方は」
と、何がじじいの気に召したのか、愉快そうに笑い出した。とりあえずセーフ。
「だから、別にじじいが気にするようなことなんてねえよ! 下んねーことばっか言ってると、その内本気で耄碌するぞ!」
「気をつけますよ。心配して下さってありがとうございます」
「心配なんかしてねえよ! それより、野草の話だろ? 食えるやつと食えないやつと」
いつも何をするにも突然な奴だと思っていたが、本当にじじいのことは分からない。
結局その日は庭の草花解説会になった。庭の真ん中にある池には周りを囲うように小さな草花が密生しているのだが、その池の向こう、縁側から見て奥の、塀の際。じじいは話にも入れなかったが、他の草花に混ざることなく一輪だけぽつんと咲く彼岸花が、俺は無性に気になって仕方なかった。
夏休み最後の日。いつもと同じ時間、いつもと同じように生垣の穴から庭に侵入する。いつもだったら、「ちゃんと玄関から入ってくださいよ」とかなんとか言いながらも、縁側で緑茶を啜りながらの出迎えがあるはずだ。だけど今日に限って、じじいはいつまで経っても姿を見せない。
それどころか、昨日までは人の住んでいる雰囲気や温かみのあった家さえも、まったくの静寂に染まっている。草花も、池も、人など住んでいるとは到底思えない、ただの廃屋の様相に変わってしまった。
「じじい……?」
帰ったんだなと、なんとなくそう感じた。勿論確固たる根拠があるわけではないが、考えられる可能性としてはそれが一番高いからだ。
「……そうかよ。やっと、帰りやがったかよ、くそじじい」
呟くとどこかスッキリした。今まで言いたくても言えなかったことを、ようやく言えた気がした。
結局じじいは最後まで名乗らなかった。一度も名乗らず、俺の名も呼ばず、そして消えた。
だけど俺は、「彼」のことを知っている。
彼の名前は、本田菊。もう六十年以上も前の戦争で徴兵され異国の地で死んだ、俺の実の祖父であった。
(庭に残る彼岸花だけは、視界の隅で寂しげに揺れていた。)