曼珠沙華
俺が十一の秋、弟が産まれた。
父親はその一週間ほど前、時期外れの台風で決壊した川を見に行ったまま帰ってこなかった。母親も産後の肥立ちがよくなくて、冬を迎える前に死んだ。
しばらくは近所の優しいおじいさんとおばあさんの世話になったけど、弟が五つの誕生日を迎える直前に二人とも老衰で死んでしまった。
それでもその頃にはもう俺一人で弟を養っていけるようになっていたから、何も問題はなかった。ただ、弔う墓が増えただけだ。
だがその頃から、俺は彼岸花がなんとなく苦手になっていた。
おじいさんとおばあさんの家の周りには彼岸花がたくさん生えていて、毎年秋になると風もないのに揺れるさまをよく見た。それがなんだか呼ばれているような気がして、少し怖かった。
二人のお葬式の時も、変わらずそれは咲いていた。大人たちは二人の死を悼んでいるのだと言っていたが、俺はそうは思えなかった。花が、二人を連れていってしまったようだと。
それ以来、俺は彼岸花を避けるようになった。もともと好きではなかったし、家の近くには一輪も咲いていなかったから、特に問題はなかった。
そして明日は、弟が産まれてちょうど七年になる。
友達と約束があるとかで、弟は朝から元気よく外に出て行った。友達の母親が俺たちの家庭事情を知っているようで、昼飯はご馳走になってくると言っていた。迷惑かけるんじゃないぞ、と一応注意だけは促して、俺は円匙を持って庭に出た。
正直弟の礼儀のことについてはあまり心配していない。どこから得るのか、多分よく読んでいる本からだろうが、俺が色々と教える前から簡単な常識なら身につけていた。だから心配なのは、怪我をしないかということだけで。
それでも元気なのはいいことだ、とまるで兄馬鹿なことを思いながら、庭先で靴を土仕事用の長靴に履き替える。
明日になったら、七年間無事に過ごせたことを感謝してお札参りに行こうか、などと考えながら、庭の半分ほどを占める花壇に目をやって、動けなくなった。
――庭に、彼岸花が、七本。
花壇の真ん中あたり、昨日まで何も植わっていなかった筈のそこに、突如として姿を現した。家に、彼岸花の球根などは無い。仮に近所の人が持っていたとしても、勝手に人の花壇に植えて放っておくような人たちではないと知っている。ならばこれは、なんだ。
途端に、全身が総毛立った。幼い時分に、母に幾度も聞かされた話が一瞬で蘇った。
『彼岸花は、本来彼岸でしか咲きません。彼岸とはあの世、死んでしまった人たちが往き着くところです。それが此岸、つまり私たちが今生きているところで咲いた時は、彼岸からの合図になるんですよ』
『合図?』
『そうです、此岸の人間を、彼岸に連れていきますよ、という合図。だから自分の周りで彼岸花が咲いたら、気を付けなさい。誰かが、連れて行かれてしまいますよ』
身体が震えた。
おじいさんとおばあさんが死んだ時、彼岸花は家を取り囲むように咲き誇っていた。
母が死んだ時、あの年だけ、家のほど近くで一輪の彼岸花が狂い咲いていた。
父が死んだ時も、川沿いは、彼岸花で埋め尽くされてはいなかったか?
寒くも無いのに身体の震えが治まらない。だってこれは。
七本の彼岸花と、明日七つになる弟。出来すぎていると思った。思ったが、もうどうにもならなかった。
これは、弟の死を意味しているに違いない。
ざく、ざく。
庭では円匙を操る音だけが響く。
いきなり現れた彼岸花が本当に弟を連れて行ってしまうのなら、俺はそれを阻止しなければいけなかった。
弟は、大きくなったら学者になるのだと言っていた。学者になって、えらくなって、俺のことを助けるんだと。それは親というものを知らない弟が唯一出来る「親孝行」だ。俺は弟の保護者として、それを叶えてやる義務があった。
一本一本、根の一欠けらも残さぬよう、丁寧に土を浚う。昼前から始めた作業も、気が付けば太陽が真上を過ぎ、西に向かって傾きかけるまで続けても終わらなかった。
額の汗を拭い、今抜いた花だけでも庭の片隅で燃やしてしまおうと立ち上がって、がつんと頭を殴られたような衝撃に見舞われた。
気が付けば花壇も越えて、庭一面に真っ赤な彼岸花。
何故。どうして。
庭だけではない。よく見ると、家の中にまでそれは侵食していた。
自身の気が触れたのかと思った。彼岸花に対して過敏に反応するあまり、幻覚でも見ているのではないかと。
だが、恐る恐る伸ばした指に触れた花の感触は、本物だった。
恐怖と困惑と疲労がどっと押し寄せてきて、円匙を取り落とす。もうこうなってしまえば円匙など役に立たない。弟が帰ってくる前に、この花達を全て処分しなければならないのだ。
俺は地べたに這いつくばるようにして、花壇を端から浚うことにした。花壇が終われば次は庭。それも終われば、今度は家の中だ。早く、早くしないと弟が帰って来てしまう。急がなければ。
――――
友達に、どうしても見せたいものがあると言われて、町の外れまで行ってきた。それは、見事な彼岸花の群生地だった。
すごいね、こんなにたくさん、初めて見た、と正直に言えば、友達は少し誇らしげに、僕も最近見つけたところなんだよ、と言った。
夕焼け空にも見劣りしない赤色は、僕の目にはそれは美しく映った。今度兄さんにも教えてあげよう、と思いながら帰途を辿る。兄さんは喜んでくれるだろうか?
家に着く頃には辺りはすっかり薄紫に染まっていた。少し過保護な兄さんは、少し心配しすぎではないかとこちらが心配いになるくらいだったから、お小言の一つや二つは覚悟していたのだけど。
いつもなら灯りがついているはずの玄関も、台所も、真っ暗のままで人の気配がなかった。これは相当怒っているんじゃないかといよいよ不安になる。だからできるだけ静かに、音を立てないように注意して玄関の引き戸を開けた。
「……ただいま…………兄さん?」
普段は玄関の開く音だけで走ってくるような兄さんなのに、今日に限って足音もしない。
靴を確認すると、兄さんの普段履きがなくなっていた。もしかしてまだ買い物に出ているんだろうかとも考えたけど、この時間では馴染みの商店はもう閉まっている。となると、兄さんのいそうなところは一箇所しかない。
僕は脱ぎかけた靴を履きなおし、庭へ回った。
「……あれ」
庭に出ても、兄さんはいなかった。代わりに家では見慣れない赤が、花壇の真ん中辺りにまとまって咲いているのに気が付いた。暗がりではよく分からない。なんだろうと近づいて、さっき見たばかりの光景を思い出す。
花壇の真ん中には、彼岸花が十八本、固まって咲いていた。
「彼岸花なんて、家に植えてたんだ……………ん?」
群生する彼岸花の脇、茎の緑に混じって、植物では有り得ない色を見つけた。
花を踏まないように花壇に入って拾い上げたそれは、くすんだ鈍色に乾き切った土をこびりつかせた、兄の円匙だった。
それでも肝心の兄はどこにもいない。いっそ泣きたいような気分で辺りを見回し、兄さんと叫ぶ。
風もないのに彼岸花が揺れた。