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八月朔日

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青々とした田圃が辺り一面に広がっている。瑞々しい緑の香りが豊かに周りに満ちて、今日も暑い日になるという予感をはらむ早朝であった。
 何処までもある蒼と青の中を、まるで半紙に落とした一滴の墨のような違和感で、朱い着物がはたはたと風に揺れる。空と田圃の永遠に広がる二色に、その朱だけが明らかに異物であった。

 朱の着物を纏うのは幼げな子供の陰である。子供は田圃の中に延びた畦に立って、慎重に辺りを見回していた。背を覆う程の長い黒髪が、時々ふわりと風に流れて、白い顔(かんばせ)と黒曜石の瞳が覗く。その顔は驚くほど美しく整っていて、朝の光に輝いていた。

 夏の稲はまだ青く、ところどころ実り始めた軽い穂が、垂れる事もなく風に揺れる。
 その子供……雲雀は畦にしゃがみ込むと、すぐ近くにあった穂を一つ掴み、摘み取ろうと手に力を込めた。

 がさがさ、がさがさ。

 風に揺れる稲が囁くような音を立てる以外は、朝の静寂に満ちている空間に、無粋な音が混じった。長い睫が顔に影を落としながら、真剣に穂を見つめていた雲雀は、その瞳を稲の海に走らせて顔を上げる。

 がさがさ、がさがさ。

 稲の揺れる音はがさがさと大きくなって雲雀の耳に届く。田圃を見渡せばすぐ近くに、風に踊るのではなく揺れている稲がある。それは徐々に雲雀の元へ近づいて来る。
 雲雀は手にした穂をぷちんと千切って、それから立ちあがった。長い髪が流れて視界を邪魔してもそれを払う間すら惜しむように、雲雀はがさがさと揺れて近づく稲を黒曜石の瞳で真っ直ぐに見つめた。

「誰。其処で何をしてるの」

 まだ幼い子供の声にしては落ち着いた、鈴の転がるというよりも朝の風と例えた方が相応しい声が、凛とした響きで揺れる稲に呼びかける。
 呼びかけに、揺れる穂は一時だけ止んだが、またがさがさと大きくなり始めた。雲雀の中で緊張が、細い銀の糸を引く感覚で張られていく。
 何が現れても対処が出来る様にと、小さな手をきつく握って身構えた頃、がさがさは一層大きくなって、そうして一つの影が飛び出した。

「こんにちは! 赤いおべべのおひいさま」

 稲穂の海から飛び出して来たのは濃い茶の髪の、まろい頬に大きな瞳をした、雲雀よりもずっと小さい、まだ幼さない子供であった。
 熊や鹿の獣の類、または悪さをしに来た無粋な輩を思っていた雲雀は、目の前に現れた子供に、黒い瞳を瞬く。

「おはよう、じゃないの?」
 どうしてこんな処にいるとか、何しているとか、雲雀の頭の中にはたくさんの疑問が溢れていたのだが、零れたのはそんな言葉であった。
 一体どうしたらこうなるのか。濃い茶の髪のところどころに草や葉を絡ませた乱れた髪を揺らして子供は首を傾げて、それから目に見えて表情を明るくする。
「おはよう、おひいさま」
 口を大きく開けて小さな犬歯を見せながら、子供は笑った。細められた瞳に朝の光が映ってとろけた様になっている。この国ではありえない色に異人かと考えを巡らせながら、雲雀は未だ稲から顔を覗かせた姿でいる子供から、少し横に退いた。
「上がれば?」
 そんな中にいたら汚れるし、稲で切ってしまうよ?
 雲雀の言葉に子供は目を輝かせたが、少し迷ったようなそぶりの後首を振った。
「ここで、大丈夫です」
「ここは御神田(おみた)だ。大人に見つかれば酷く怒られる」
「……でも大丈夫、です。それよりひいさまは何してるの?」
 子供がどうして田圃の中に居たがるのか雲雀には見当もつかなかったが、怒られるのを心配して、断られたのを無理やり畦に引き上げてやる程優しくは無かった。
 だから畦にあげるのは諦めて、雲雀は質問に答える。
「初穂を摘んだ」
 手に持っていた、今摘んだばかりの稲穂を見せると、子供は眼をぱちぱちとする。

 雲雀の家は、結構な名家である。名家には古くから残る様々な儀式や仕来たりがあって、近隣の家を代表して、八朔の日に神に納める初穂を摘み取るのも、代々雲雀の家の役割であった。

 そう。このあと雲雀は家に戻って、それから山の上の神社まで初穂を奉納に行かなければならないのだ。
 何百段もある石段を上るのは子供の足では辛い。
 日が高く、暑くなってしまう前に済ませようとしていた事も忘れて、気づけば雲雀は子供と話し込んでいた。
 空を仰げば、日は雲雀の覚えていた位置より高い位置にある。顔を向けただけでじりじりと熱を感じる太陽に、今日も暑くなる事を予感する。

「このあともやる事があるから、僕は行くよ」
 着物の袖を翻して、急いで立ち去ろうとしたが、その袖をくんと引かれた感じがして、再び振り返る。見れば、子供のふくふくとした小さな手が、稲穂の海から延びて雲雀の袖を掴んでいた。
「あ、あの」
「何」
 子供ははくはくと金魚の様に口を開けて、それから目を瞑って開いてまるで勢いをつける様にしてやっと声を出した。
「その、穂。貰えませんか」
「……周りにいくらでもあるでしょ。それを摘めばいいじゃないか」
 ここは田圃だ。まだ早い時期の為穂の出ていない稲も多いが、それでも見渡せばちらほらと、幾らでも穂を見つける事は出来る。
「も、貰って来いって先生、に」
「摘むんじゃなくて貰って来いって?」
 子供は必死に頷く。
「先生はとっても怖い、です。いう通りにできないとすぐ駄目って言って、叱る」
 先生の恐ろしさを思い出したのか、幼子は顔を青くして小さく震えた。
 朝も早いうちから稲穂を求めて田圃に行かされたのはお互い様のはずだが、怯えている子供は雲雀からもずっと哀れに見えた。
「仕方ないね」
 雲雀は小さく息を吐いてから、ずっと袖を掴んでいた幼子の手を離させて、ひんやりとした掌に摘み取ったばかりの穂を押し付ける。
「ほら、あげるから。先生に叱られないうちに行きな」
「あ、ありがとう、ひいさま」

 雲雀は子供の言葉に苦い様な、とても複雑な表情をしたが、子供はそんな顔を見る事もなく、あっという間に背中を向けて稲穂の海の中を駈けだしてしまった。
 子供の背にふよふよと揺れる尾の様なものを見た気がしたが、雲雀は気にせず新たに摘み取る為の初穂に手を伸ばした。
作品名:八月朔日 作家名:桃沢りく