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夏川おんじ
夏川おんじ
novelistID. 12391
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彼の恋愛事情

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「はつこい、」
 かあ。

 今の今までだらりと机に頬をつけて寝そべっていた前田慶次は、唐突にそんなことを漏らした。
 それは呟きにも近い小さな声だったので、机を挟んで前の席の椅子に座って本を読んでいた俺としては聞こえなかったことにして無視してもよかったのだけど。
 本人も返答を期待している風ではないし。というか、自分が声を出したことさえ気付いてないんじゃないか?
 慶次の顔と目は、そのくらい虚ろと言ってもいいほどのものだった。
 そんな様子を目だけでちらりと見遣って、本に視線を戻してから口を開く。
「初恋、ね」
 それ以上でも以下でもない、どうとでもとれる、相槌。慶次から会話としての返答が来なければそれまでだし、別にそれでも構わない。
 果たして、慶次は応えを返した。
「この前さ、告白されたんだよ。1年生の子」
 薄ぼんやりとはしているもののはっきりとした口調だった。俺はそれにへぇ、とだけ返す。
 色恋を謳い人付き合いも円満。容姿だって男の俺から見ても惹かれるに値するだろう、と評せる。
 しかし、慶次をよく知る者ならば、よく知るからこそ、告白なんて“愚行”はしない。
「断ったんだけどさ」
 やはりそうか、と思って再び気のない応えを返す。
 そこでふと思った。そんなことを改めて言うほど、この男は自己顕示欲が強かったか?
 その答えは慶次の次の言葉で明らかとなった。
「・・・初恋、だったんだってさ」
 そういうことか。
「1年生だっけ?そんな歳で初恋か、純だねぇ」
 慶次が改めてこんな話題を出したことに得心がいって、茶化すように応えを返した。ぺらり、とページを捲る。
「俺もそう思ったけど。まぁ、そんな歳だとしても恋を知ったのはいいことだしさ。・・・応えてあげられないのは残念だけどなァ」
 ふぅ、と溜め息を吐く姿に、当然の疑問を覚える。しかしその答えは知っていた。それほどに、前田慶次という男と俺との関係は長い。
 そして、この男が今何を考えているのかも、わかってしまう。
 風に聞いた噂だ。慶次自身の口から出たことはないし、俺も直接尋ねたことはない。
 あれが真実なら。こいつは今、ぼんやり思い出したことでもあるんだろう、きっと。
 選択。ページに視線を落としたまま、暫し考える。

 少しばかり、お人よしになってやることにした。

「なんで応えてやらないのさ?好かれてんだろ。いつもそうだけどアンタ、“好きじゃないから応えられない”っていう風には見えない」

 “応えるわけにはいかない”、って見えるよ。

 答えを知っている問いを、あえて投げかけた。
 ぺらり。
 ページをまた、捲る。
 きょとんとした視線が向いているのがわかるが、あえて無視する。それも少ししてから逸らされて、枕代わりにしていた腕に顔を埋めた。
 訥々と零される、篭った声。
「・・・まだ、・・・忘れられない、から。俺じゃ、俺を好いてくれた女の子を幸せにしてやれない。俺なんかより・・・ずっといい男、いるよ」
 予想通りの答えに続いた、あんたとかさ、という小さな笑い声。
 笑い返しては、やらなかった。
 二人とも黙り込んで、数秒だろうか。数分だろうか。それとも数十分だろうか。
 ぺらり。
 静寂とページを捲る音の後、お人よしにも程があるな、と思いながら口を開いた。
「・・・考え過ぎるなよ。幸せとかそんなんじゃなくて。過去に縛られるより、今のアンタがしたいようにすればいい」
 言うだけ言って、またページを捲った。
 途中で手を止める。

 再び腕に顔を埋めた慶次が、小さく何かを呟いた。



 視線を落としていた本の内容が、さっぱり頭に入っていなかったことに今更、気付いた。
作品名:彼の恋愛事情 作家名:夏川おんじ