戯れのお願いと反撃
日差しもちょうどよく降り注ぎ、風は穏やかに吹いている。屋根の上で寝っ転がっていればそのまま眠れてしまいそうだった。忍としての警護任務があろうがなかろうが、そんなことは許されないけれど。
今は尚更、だろう。
何せ己は、誰もが心穏やかになるような良き日に―――主を部屋に押し込んで、政務に励ませているのだから。
その当人が怠けていると知れば、あの主はすぐさまむくれることだろう。
やむを得ないとはいえ、こんな日に部屋に押し込めた主には悪かったと思う。まあそれでもやっぱりやむを得ないから、さぼらせるわけにはいかないのだけれど。
差し入れと称した、ちょっとしたご褒美。佐助は先程買ってきた団子を手に、主の部屋へと向かっていた。
「旦那ぁ、ちょろっと差し入れ持ってきたんだけどー」
そう声をかけつつ主の返答を待つ。いくら他より主に近しいとはいえ(そのくらいは自惚れてもいいだろう)、許し無しに部屋に入ることはさすがにできない。
声をかけた瞬間、部屋の中でがたんばたんと物音。すぐに若干慌てた声で、な、なんだ、と声が返ってきた。
ははー、ん。
「開けますよ」
一応そう断ってから襖を開ける。見えたのは書類の積まれた机と、こちらに背を向けるようにして机に向かう幸村と、・・・思いっきり畳の跡を写し込んで振り返る幸村の顔だった。
「お、おぉ。佐助か」
何をわざとらしいことを。
表情だって完全に焦っている。
「差し入れーってことでコレ、買ってきたんだけど」
そう言って手に持った包みを持ち上げると、目に見えて幸村の顔が輝いた。
「・・・まぁ、旦那はいらないよね?寝てたわけだし」
「ねっ、寝てなどおらぬ!」
畳のアト頬にばっちり写してるお人が何を言うか。
そのまま口に出して伝えてやると、幸村は慌てて頬を擦る。
見たところ任せた仕事の半分ほどは終えているようだ。まぁいいだろう、ということで作っていた意地悪げな顔を崩した。呆れたように笑って、持ち上げた包みを揺らす。
“弁丸様”は変わんないねぇ、と呟いて。
「お茶淹れてくるよ。待ってて―――」
そう踵を返しかけたとき、唐突に幸村の上体が後ろに向けて仰向けにぱたりと倒れた。
振り返ってこちらを見ていた幸村の後ろということは、つまり俺に向けてということで。
そのまま腕を伸ばして、穿き物の裾を掴まれた。
「・・・旦那?」
まさか茶も待てないほど団子がほしいのか。
それとも“弁丸様”に怒ったか?
一種の嫌な予感と共に幸村が口を開くのを待っていると、幸村は子供のような顔でじっと見上げてくる。
「・・・旦那、離してくれないとお茶取りにいけないんだけど」
「・・・名前」
呟くように漏らされた単語に、は?と聞き返す。このときの己はまあいわゆる、余裕がない状態、だったのだ。というのも幸村の姿勢が姿勢故に、見上げるというのは上目遣いにならざるを得ないわけで、ああもう、だから。
そんな可愛らしい顔しないでくれ・・・!
「名前で、呼んでみてくれぬか?」
必死に頭を駆け巡る想いが顔に出ないように努めるこちらの苦労も露知らず、主はそんなことを言って寄越した。
名前、というと。
「・・・幸村様?」
「そうじゃない」
「・・・源二郎様」
「それもいいが」
「・・・・・・・・・」
じゃあなんだ。
真田源二郎幸村、“真田様”を除いて全部言った。主にこれ以上名前は・・・って、ああ。
あったじゃないか。
「もしかして・・・弁丸様?」
最後の選択肢であったにも関わらず、不満げに眉を顰められた。どうやらこれも違う、らしい。
「そうじゃない、全部合っているが違う」
なんだそれは・・・。
顔に怪訝そうな表情が出てしまったのだろうか。体を捻って、裾を掴んだ手はそのままに胡座をかいて座り直した。
「敬称だ」
己の眉がぴくりと跳ねたのがわかった。先とは違う嫌な予感だ。多分当たる。
「様、はいらぬ。呼んでみてくれぬか?」
呼ぶだけならタダ、とかそういう問題じゃない。幸村は主、対して己は草の者。こうして普通に触れて話して、接しているだけで本来なら打ち首ものだ。
そうなっていないのはひとえに、主の人柄から来るもので。
それがわかっているからこそ、これ以上甘えるわけにはいかなかった。
「・・・無理ですよ。俺にとって幸村様は幸村様、呼び捨てなんて畏れ多い」
「なら旦那はいいのか?」
「・・・あれだって一応敬称でしょう」
まあとんでもなく不敬ではあるけれど。
「一回でいいのだ、他の者に聞かれるのが問題なら、ほら、」
そう言って足を膝からぐいぐい引っ張ってくる。うまくすり抜けることもできなくはないがそこは旦那の馬鹿力、下手に動くと足が折れかねない。
「ちょっと旦那っ・・・!」
堪らずバランスを崩して、一歩部屋に足を踏み入れてしまった。すかさず襖を閉められる。
「これでいいだろう?さあ呼べ」
心なしか“お願い”から“命令”に格上げされているような。
足元には嬉しそうににこにこ笑う主の姿。だからもう、
可愛いんだって・・・!
知らず唾を飲み込んで、幸村から距離をとるように移動する。何故か正座して座った。
俯いた顔で視線だけちらりと正面を見遣る。
変わらぬ笑顔でこちらを見ている、幸村がまだいた。
いなくなるわけないだろ・・・。
現実逃避しても無駄だと悟り、腹を括る。言えばいいんだろう、言えば。たった一言だ。
「・・・・・・・・・ゆき、むら、・・・」
「なんだ、聞こえぬ」
・・・人が決死の思いで搾り出したってのにこのお方は・・・!
意識していなければ完璧に青筋を立てていたことだろう。
幸村の顔を盗み見れば、にこにこがにまにまに変わっていた。
・・・この野郎。
「・・・あーもう、わかりましたよ」
そっちがそのつもりなら、受けて立とうではないか。
立ち上がり、すっと幸村の前へと移動する。膝立ちになって、幸村の両脇の畳に手をついた。
目の前には家臣の奇行にきょとんとしている幸村の顔。ちょうどそれはそう、上から抱き込むような形で。
「? さす」
「――――――」
ゆきむら、と。
唇が触れるほど近く、耳元で囁く。
そのまま体を離して立ち上がり、何食わぬ顔で襖を開けた。
「茶ぁ、淹れてくるよ。―――旦那」
返事がないのは、後ろ姿の首元と耳が真っ赤になってることだしまあ、勘弁してやるか。
団子の包みを揺らしつつ、くすりと笑った。