ちみっ子化現象
井戸で顔洗う。忍道具の簡単な確認と手入れ。忍鳥の様子を見る。
大体その辺りで陽が昇り出して、旦那が鍛練する声が聞こえてくる。まあたまに寝過ごすけど。
今日は寝過ごした日らしく、あの朝っぱらから暑苦しい声は聞こえなかった。
人ってものは、普段からたまになくなるものがそのときなかったりしても、訝しんだりはしない。
だから俺も、不審には思わなかった。
思わなかったからこんなことになってるとも、思わないけれど。
鍛練に起きてこない日の朝の旦那は、誰かが起こさない限りは太陽が真上に来たって起きない。
起こすお役目は女中だったり俺だったり様々だが―――今日は気まぐれで俺が起こすことにした。
―――その気まぐれに感謝することになるとは。
「旦那ぁ、朝だよー」
朝陽を部屋に取り込むように、すぱんと小気味良い音を立てて襖を開く。目の前にはやけに小さい布団の膨らみがあった。
「旦那?」
その膨らみは動きもしない。が、僅か呼吸と思しき上下が見て取れた。
丸まって寝るにしては少し暑い気温だと思うのだけど―――。
そう思いながら布団に近づく。
「旦那朝だってば。起き、ろッ」
“ろ”のところで勢いよく布団を引っぺがし―――俺は信じられないものを見た。
過去に、見たことがあるもの。否、過去でしか見ることができないもの。―――姿、というべきか。
かつての真田源二郎幸村―――幼名弁丸様が、そこにいた。
いやいやいや、着物に隠れていて見えてるのは頭だけだし―――それでも旦那の布団に子供がいるのは確かなわけだが―――、“これ”が旦那だと言うには早計に過ぎる。そもそも人が突然退行するはずがない。
頭の中を大混乱にしながらどうするべきかと固まっていると、着物の中の子供がもぞもぞと身じろぎを始めた。この着物がまた、中身の人間がそのまま小さくなったかのような自然にして不自然な様相を呈しているのが怖い。
今更ながら引っぺがした布団をそのまま持っていたことに気付き、完全に混乱状態に陥っていた俺は何故か布団をばさりと手から離した。その音に、着物の中の動きが一瞬止まった。
そして。
一番聞きたくない声がした。
「―――すまぬさすけ、またねすごしたか」
どうやら声の主は先の布団を落とした音を、寝過ごしたことへの怒りを示していると思ったようだ。しかしそんなことは問題ではない。
その、声は。過去何度も聞いた、声変わり前の高い声だった。
そして幼子特有の、舌足らずな喋り方。
理性は否定していても―――記憶は間違いないと言っている。
これは、弁丸様だ。
「な、若・・・さ、ま」
思わず昔使っていた呼称が口から漏れる。
と、その瞬間着物がばさりと持ち上がり、中の人物が露になった。
「いまさら若はなかろう!おれはりっぱなもののふだぞ!」
くちゅんっ。
・・・とりあえず、何か着せよう。
「・・・で、旦那。なんか心当たりある?」
「あるわけがなかろう。こういうことはおまえの方がせんもんではないのか」
「あのね旦那、忍だからってなんでもできると思わないの」
ひとまず弁丸様時代の着物を引っ張り出してきて着せてみたが、これがまたぴったりだった。本人なのだから当たり前だが。
そう、本人なのである。この弁丸様は紛うことなき真田源二郎幸村様その人なのだ。
旦那の隠し子、とかも考えなかったわけではないが・・・ありえない。色事と聞けば破廉恥と叫んで拳に炎を纏わせる御仁が隠し子など。
あるいは弁丸様に良く似たどこかの子供が紛れ込んできた、とか・・・いろいろな可能性、そう可能性だけならばいくらでもある。が、全てありえない。先も思った通り、記憶と勘は現状の全てを肯定しているのだ。これは旦那だ、と。
忍の勘を、馬鹿にしてはいけない。
「変なもんでも食った?・・・って言いたいとこだけど、どんなもん食ったら退行なんかするんだか・・・」
それにしたっていくらなんでもお手上げだ。唯一の救いは退行したのが旦那の体だけってところだが、それだけの救いなどこの場合救いとは呼ばない、と思うのは間違ってはいないだろう。
「呪いとか・・・そんな領域だよねー。でもそんなんほんとに効くはずないし・・って旦那ァ!!」
人が頭を悩ませているのを余所に、旦那は箪笥によじ登っていた。ガキになったのは体だけかと思っていたら、まさか頭の方も退行してたのか?
「子供の体というのもいいものだぞさすけ。すべてが大きく見える!」
「あーそりゃそうでしょうよ。危ないから降りろって!」
旦那は邪気の一つもなく笑っている。
紅蓮の鬼でも虎の若子でもない、昔そのままの太陽のような笑み。それが眩しかった頃もあったけれど、圧倒的にそれに救われたときの方が多かった。
そんな顔を見ていたら。
悩むのが、馬鹿馬鹿しく思えて来た。
ふう、と呆れ混じりの苦笑を漏らす。旦那はそれすらにも笑って、あははと声を上げた。
「・・・とりあえず、降りてきて旦那。朝ご飯にしよう」
「おう!」
箪笥の上からぴょんと飛び降りて来た旦那を危なげなく受け止めて、俺は思った。
今日一日くらいは、いいんじゃないかな。
その次の日の朝、旦那は何事もなかったかのように元に戻っていた。
ほっとする反面、どことなく残念な気もするのは、なぜだろうか。