Sea are Song
だらだらと額から噴出した汗は、止め処なく流れてはアスファルトに黒いシミをつけた。
ぽつり。
ぽつり。
小さな丸い影は、増えては消え、また増えていく。
焼けたアスファルトは、じゅ、微かな音を立てて、黒い名残をすぐにも大気と混じらせてしまっていた。
湿気を増した空気が、肌にまとわりついて、また一つ、額を汗が伝う。
まるで悪循環だな。
思いながら、静雄は一つ、溜め息を吐いた。
とりわけ、背中が暑い。
理由など知れている、常から決して仲などよくない黒い男が、さして広くもない、どちらかというと薄い背にぺたりと張り付いている。
何とはなしに横目でちらり、黒い旋毛を見た。
思うさま熱を吸った真っ黒な髪。
この暑さで、平気なはずもないだろうに、着ている服まで真っ黒で。
それはその心根ごと。
黒く。
ただべっとりと闇を溶かし込んだかのように黒く。
暑っ苦しい。
思いながらも振り払わないのは、それをすることすら熱いからだ。
蝉が鳴いていた。
都会のまばらな街路樹にしがみついて、じわじわと。
じょわじょわと。
がなるように、生を歌う。
「・・・あつ」
ぼたり。
また一つ、頤の先から汗が滴った。
背中が暑い。
ぽってりと熱を持って。
「おい」
低い声で呼びかける。
黒い頭はピクリとも動かない。
終いには声を出すことすら億劫になって、静雄はまた一つ息を吐いて、それっきり男に構うのをやめた。
昼に少しだけ足らない時間。
太陽は燦々と、ほぼ真上まで来ようとしている。
何がどうしてこうなったのか、そんなことはいっそどうでもよく、ただ暑い、それだけが静雄を満たしていた。
蝉が鳴いている。
じっとりと暑さを増していく都会の昼間は、それだけで思考の全てを奪うようで。
とりあえずは木陰。
申し訳程度の木々の影の下、しゃがみこんだ静雄は胸ポケットを探って、取り出した煙草に火を点けた。
じゅっと焦げた音が辺りに響いて、それはまるでアスファルトに落ちた汗の滴が大気へと還っていくのと同じ音で。
立ち昇る陽炎が空気を歪ませて、都会の夏が過ぎていく。
道を行く誰もが、涼しい顔をしているようで、暑さに参っていた。
蝉が鳴いている。
申し訳程度の木々にしがみついて。
生を、歌って。
葉の影がざわざわと濃く地面でざわめいて、零れ落ちる陽の光、それだけを見ていると随分と目映い光景なのに、実際にはただ、不快なほどの暑さだけが立ち込めていた。
「いざー・・・」
「シズちゃん」
男の。
名を呼ぼうと開かれた口から落ちた声はほぼ同時にかけられた呼びかけに遮られる。
シズちゃん。
到底許容できないその名は、静雄を呼ぶ時に決まって男が口にするそれだ。
常ならば返事など返さない。
だが逆らうのも億劫なほどの暑さで。
蝉が鳴いている。
ぼたり、額から流れた汗が、また一つアスファルトに溶けて。
「ねぇ、海へ行こうよ」
海へ。
誘いは突拍子もなく脈絡もなく。
ただ、静雄の背で喉を震わせる。
黒い頭をちらりと見下ろした。
肩越しに。
陽の光がきらきらと瞬いていて、木漏れ日が男の髪の上で踊っていて。
静雄は目を細めた。
まるでそれが眩しくて。
眩しくて眩しくて仕方なくて。
「ああ」
口の端から滑り落ちた音は、決して相槌でなどなかったのだけれど。
嗚呼。
蝉が鳴いている。
高い空だ。
青く澄んで。
「よし。じゃぁ行こう」
するり、背中から離れた男は、身軽な動作で静雄の前に回って、汗の光る額で笑い、ぬるんだ手を差し出した。
人差し指にはめられた指輪がきらりと鈍色の輝きを放って、静雄はそれにもまた一つ、目を細める。
ああ。
きらきらと。
眩しくて。
アスファルトに汗が落ちて、蝉の鳴き声が高くなった。
夏の日だ。
何故、その差し出された手をとったのか。
自分でもわからないままに。
静雄は。
+++
白い町だった。
海が。
随分と近いのだろう、扉が開くと、途端むっとした熱気とともに潮の香りが、空気いっぱいを染めた。
蝉の声が耳に届く。
煩いばかりに響いて。
車内は暗くなどなかったのに、それでも外ほども明るくはなかったのだろう、白く瞬くばかりの光の洪水に、一瞬目が眩んでふるりと一つ頭を振る。
白いホーム、木で作られた柵まで、白いペンキで彩られていて。
着いた駅、見聞きした覚えのない地名に首を傾げた。
臨也は構わずに静雄の手を引く。
「こっちだよ」
無人の改札を抜けて、町へ下りる。
白い町だ。
真新しい家々は、だが確かに人の生活する匂いをさせてただ白い。
目映いばかりの陽の光の下で、白く。
自分の身につけた黒いベストが、人目を引くような気がしたけど、そもそも人通りなどない。
前を行く黒い男の頭を見た。
迷いのない足取りで、先へ進む。
見たことのない町を、まるで自分の庭かのように闊歩する。
何処かの家から風鈴の音が涼しげに響いて、木々のざわめきが風を渡っていく。
細い路地を抜けて、白い家々の間を縫って。
白い柵が庭の木々をぼんやりと囲っている。
静雄には何処に向かっているのかすら判然とせず、ただ。
海へ。
そう言ったからには、向かうのは其処なのだろうと思った。
蝉の声が、遠く近く。
都会とは違う鳴き声を響かせて。
潮の香りが深い。
だのに見える範囲で前には、海だと思えるものなど何もなく。
家、家、家。
白い家が続くばかりだ。
「おい臨也、お前何処に向かってっ・・・」
振り払わない手に引かれたまま。
ふと不安に駆られて声を上げてみたのだけれど。
「いいからいいから。大丈夫だよ、シズちゃん」
大丈夫。
そんな根拠のない言葉に窘められて。
潮騒の音が聞こえた。
微かに。
潮の香りが濃く、深くなる。
細い路地を縫って。
白い家を抜けたら、目の前に現れたのは、背の高い壁のような。
臨也は、備え付けられた階段を上って、その壁の切れ目へと向かった。
そうだ、これは・・・防波堤だ。
ぼんやりと思い当たった時。
引かれた手の先が、その切れ目へと差し掛かって。
潮の香りが、鼻の奥いっぱいを満たす。
嗚呼。
「・・・・・・海」
目の前に広がったのは、白い砂浜。
遠く青い、満ちる潮騒。
それは、まるで。
遠い、夢のような。
...発行本へ続く。
作品名:Sea are Song 作家名:愛早 さくら