蟲
落葉樹の枝がざわめいた。音のしない夜。明日の試験を控えしん、と眠りにつく学園の敷地内は普段から想像し得ない程の闇。
眠りが浅いのは鍛えられたせいもあるが、ここ最近は輪を掛けて浅かった。ある一定の方角からの物音で目を覚ますことが出来る。
遊びの訓練のつもりだった。5年長屋の一番端、全学年い組みで唯一のひとり部屋。そこを標的としたその日から。
筆記の試験前日の長屋の眠りは幾分早い。丑三つもとうに過ぎれば気配すらも消える。
綾部は何時もと同じ浅い眠りに落ちた。そして、何時もの場所からの戸が開き風の入る音で目が覚める。
お、や。
戸の開く音はしなかった。風の音のみだ。これで本当に彼が外に居れば、私もなかなか大したものではないかなと目覚めの頭で綾部は思った。
それから、春を待つ夜の底冷えは寝巻き一枚では対処できないと悟り、行李から適当な羽織を引っ張り出す。戸を開けば布団の暖かさが名残惜しくもあったが、好奇心と採点の気持ちはそれを上回っていた。
きみのなを叫ぶ、心臓
それ以上の気持ちがそこに付加されてはならなかったのだ。
無意識にしても、解っているとしても。
闇に消える。最近分かってきた、呼吸に、己を合わせる事。木々には木々の、土には土の。呼吸を知り己を消し、それに溶け込む。
やはり当たりだったのだ。空気の呼吸で彼の目覚めを読めたのだ。標的の彼の居場所は探さなくても分かった。彼の手持ちの明かりがぼんやりとその場所を示していたから。
風には風の、久々知先輩には久々知先輩、の
はしる
空気
肌に触る気
間合い
鈍い音
喉が低く唸り
組み敷かれる、腕
降る、声
「‥四年、の」
「流石ですね」
右の指は、確かに彼の胸に触れた感触を残していた。捻られたままの右側と地に付いた髪、こめかみ。それらがじりり、音を立てる。
「殺気が混じれば気付く」
「おや」
結われていない長い黒髪が星にゆらめいた。ぬらぬらとしていた。彼を意識した瞬間に脈拍が聞こえた。
「混じっていましたか」
心外だった。
完全に気を緩めたのが通じたのか、拘束された右側は開放され、綾部は荒れる呼吸をただ抑える事に神経を使った。握られた手首はその握力で痣が出来ているであろう。
彼の、手のひらの形の痣。呼吸を戻すたびに頭の蟲はざわついた。思考を逆撫でしていく、それ。
「暗殺のつもりか」
彼の言葉は静かに闇に溶けた。
「いいえ」
ただの戯れで、す―
「ただ、心臓がほしかったのです」
ほら。
理性とは逆に、知らない誰かが顔を出し喋っている、みたいだ。戯れであると伝えるのが理性だ、それがまるで顔を出さない。
わたしであるのか、それは。
彼の、
彼、が
ほしくなったのはわたしであるのか
思考趣向髪腕体温脈拍内臓血液ゆめこころ
「いえ、」
単純な戯れから始まった。的にした理由は唯一の一人部屋が羨ましかったからで4年以下であっては意味が無いと思った、ただそれだけだ。何の興味も無かったのだ。観察をし始めるまでは。
彼を見ると心臓がざわめくのは「的」だからであってそれ以上でもそれ以下でも無いと思っていた。そうだ。異常な執着心が芽生えた気もしたがそれは忘れることに決めた。しかし最近気付いてしまった。
野外実践で場数を踏むようになって。敵対するものに抱くざわつきや緊張感は、これとは全く違う場所から来ているということに。
では、これはなに
胸を、かきむしる焦燥のような感覚はなに
「なんでもありません」
月の無い闇に綾部が揺らいだ。